ふかくてつめたい、くらいばしょ。
だけどそこはひどく居心地が良くて、ずっと浸っていたいとぼんやり思わせるほどのものだった。
それでも。
“起きて”
ああ、うるさい。
“ねぇ、起きて”
うるさいと、言っているのに。
目蓋を開けば泥の中。粘ついて、どろついて、糸を引いて。
何かの腹の中にいるみたいだ、と考える間に触手のようなものが伸びてきて、無理矢理に腕に絡まった。
ぐいん。次の瞬間有無を言わさぬ強い力で引っ張り上げられてまるで海の底から急浮上させられた深海魚の気分になる。
「――――げほっ、げほっ、」
思わず泥を吐いた。胃の中をいっぱいにしていたらしい泥を。そこに近付いてきた白い手、赤い刻印が這い回るそれが。
泥を吐く口を押さえ付けて、それ以上吐けないようにしてきた。
「う、ぐ」
「駄目ですよ、吐いたりなんかしちゃ。お行儀が悪いじゃないですか……全部、飲んでくださいね?」
「……ぅ、えっ」
何をするんだと怒鳴りつけたかった。だが、その衝動も目の前の姿を見れば雲散霧消する。
ああ。
この女が、私の。
「ん……く……」
喉元までせり上がってきていた泥を飲み下し、ぼう、と腹が温かく、いや、熱く。なるのを実感して涙の浮かんだ瞳で目の前にいる者を見た。
それは少女。白い髪に赤黒い瞳、髪と同じく白い肌には赤い刻印が這い回る。
「はい、よく出来ました」
その少女はにこにこと笑いながら口に押し付けた手をゆっくりと離していく。そしてその手で、私の背を擦ってくれた。
泥はもう出なかったが、また咳き込み始めた私の背をしばらく擦りながら、大丈夫ですか?だの、苦しいですか?などと尋ねてくる。
「苦しかったら言ってくださいね。……先輩」
先輩。
そうだ。思い出す。私はかつてこの少女にそう呼ばれていたっけ。親密な仲だった、そう思う。あまり深くは思い出せないけどわかる。ひどく密度の高い、関係だった。
もっともその時には私もこの少女も、今とは全く違う姿をしていたけれど。
「ふ……はぁ……」
やがて口内に残る泥の残滓さえも飲み下し、私は己の手へと視線を落とす。それから見た。
褐色だったはずの手が、漂白された死体のように真白くなっているのを。
岩場に流れる聖骸布とやらが、血の色の赤から闇の色の黒へ染まっているのを。
ぱち、ぱち、と瞬く視界の所作で見ずともわかる、鋼色から金色へ変わった瞳。眼球。
私の口端に伝った涎を惜しげもなくその指先で拭って、口の中に指先ごと含むと少女は笑う。花のような、笑顔だった。
ただし毒花のような。そんな、笑顔だった。
私も涙の滲んだ瞳でもって、その笑顔に笑い返してみせる。すると少女は目を丸くして、やがていっそう暗く、淫らに微笑んでみせたのだった。
「抱いてください、先輩」
わたしも抱いてあげますから。
少女が言って手を伸ばしてくるので、私も素直に手を伸ばした。腕の中に納まった少女の体はか細い。きっと力を入れれば簡単に手折れてしまうのだろうな。
そう思えば暗い悦びが湧き上がってきて、蟲のように脳内を這い回って。
どうしようもなく愉快な気分に、私をさせた。
「……血の匂いがする」
少女が私の耳元でささやく。以前の私ならばダメージを受けていただろう。だが今の私は違う。それがどうした?そう答えることが出来る、た易く。
「君もな。どんなにどんなに花の匂いで隠そうとも、拭い切れない血の匂いが体中にべったりとこびりついているよ」
豊満な部類に入るだろう体の背筋に指先を這わせてつぶやくと、ふふ、と、嬉しそうに少女は笑う。殺しましたから。
「殺しましたから、わたし、たくさん、いっぱい。食べちゃいましたから、たくさんの人、たくさんたくさんたくさん。……先輩と、同じです」
「は」
乾いた笑いを、私は漏らして。
そんなことはどうでもいいのだと、これまでに殺した人間たちの顔を記憶という名のメモリーから全部消去した。
「さくら」
「はい」
「わたしは、もっとひとをころせるかな」
「ころせますよ。……わたしも、おてつだいしますから」
……ふ、ふふ、ふ。
くすくす。
あははは。
それはたまらない興奮と愉悦に満ちた真実。
赤い宝石の輝きはもう思い出せない。
金色の小さな、けれど確かに輝く星のことすら私は忘れた。
花が一輪、あればいい。この腕の中にいる、踏まれて、踏みにじられて、ぐちゃぐちゃになって、どろどろになった。
そんな可憐な花が一輪あれば、私は構わない。
「……さくら」
「せんぱい……」
ささやくように、ふたりして闇に染まる。
もう躊躇わず誰でも彼でも殺せるから、何がやってきても、もう全然怖くない。



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