ピンポン。
ピンポンピンポン、ピンポン。
ピッ、ピ。
――――カチャ。
一連のそんな動作を繰り返して、アーチャーは今日もため息をつく。カチャ、というのはロックが解除された証。ということは今日も、また“彼”はこの先にいるということであって。
肩が重い、と思いながらもバッグをかけ直してアーチャーは自動ドアの奥へ踏み込んだ。エントランスホールは広々としていて、清浄な明るさをいつもいつでも保っている。それはここをそう保つ役割を持った人間がいるから。
けれどその先に踏み込めるのはアーチャーだけだ。他にはいない。
それがいいのか悪いのかは全然わからない、ただ招かれてアーチャーはエレベーターへと乗り込む。ボタンはエントランスと最上階だけ、そのふたつだけを繋ぐものと開閉ボタンしかない。
四角く清潔な箱に乗って、アーチャーはボタンを押す。
点灯するボタンは最上階。
“彼”が待つ部屋へ、今日もアーチャーは向かう。わずかな荷物を入れたバッグとその身ひとつで。
たったひとりで、彼の元へ向かう。
「……おお、来たかフェイカー」
指先でパネルを操作してドアのロックを開錠すると、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。玄関には高価そうな靴がずらり並んで、アーチャーはその隙間を縫うように靴を脱いで室内へと上がる。
「またそんなものを食べているのか。……私が作った料理は」
「もちろん食べたが、あれだけでは物足りなくてな。この前購入したものを食べているところだ」
言われなくともわかる。
アーチャーはため息をついて、「程ほどにな」と言うと点きっ放しになっていたテレビを消した。意味のないバラエティ番組が音を立てこの小さな世界から消える。
それでもどこかから小さくクラシック音楽らしきものが流れていて、それは美しく調和された小さな世界を乱すことはなかった。
アーチャーを、彼女を“フェイカー”と呼んだ男はソファに座り、菓子の袋に手を突っ込んでは中味を取りだし口に運んでいる。やがて最後の一枚になったらしく、落ち葉のようなそれを指先で拾い上げ――――べろり、といささかだらしなく空いた指先を舐め上げた。
「英雄王。君は中味はともかく外見は美しいのだから、そのようなことをするものではない」
「何を言う。我は中味も外見も完璧だぞ。我が何をしたとしてもそれは自ずと美しく輝き、民共が崇めるものになろうというのにおまえときたらそんなこともわからぬのか」
おまえをそこまで頭の回転が悪い輩とは思っていなかったのだがな。
ソファに座り、そのままずるずるとずり下がる男はアーチャーを褒めているのか貶しているのかもわからない言葉を吐くが、きっと何も考えていないのだろう。
「ああ、ほら。口元が汚れている……」
そう言ってアーチャーはバッグの中からハンドタオルを出し、男に向けて差しだす。すると男は「ん」とその美しい顔をアーチャーへと向かって突きだしてきた。それにアーチャーはため息ひとつをついただけで、こしこしとその口元を拭ってそれで済ませてしまった。
「フェイカー、我は少々眠気を催した。午睡に入るので起こすなよ」
「わかっている、寝ている君に手を出すほど私も愚かではないのでね。その間に用事を済まさせていただくことにする」
「ん」
男は目を閉じ、しばらくすると本当にうとうとし始めてしまう。アーチャーはそれを確かめ、まずはバスルームへ向かった。
ぴかぴかに磨かれた鏡を、アーチャーはそれでも少し磨く。磨いて、から――――溜まった洗濯物の多さに何故だろう、と思った。この前来たよりも大した間を空けていないというのに、どうしてこんなに溜まるのだろうかと。
きっと一度使ったタオルや何やかんやは全て洗濯物に回してしまうのだろう、だからひとりでこんなに、と結論付けてアーチャーは洗濯機を動かし始めることにした。
音のしない、静かな洗濯機は値段も高い。
浴槽とそれから床の掃除も終えて、まだ回っている洗濯機の傍から離れて今度はキッチンへ。出してある食器は何度も言った結果、きちんとシンクに浸けてあった。
そのことに安堵してアーチャーは食器を洗い始める。かちゃかちゃというかすかな音、それから流水音。水を切って、引き出しから取り出したタオルで拭いて食器棚へ。あとは……そう、ベランダの花壇に水をやろう。掃除機は無理だから、他に出来る何かをしよう……。
「おはよう」
起きたかね?目は覚めているか?
陽は沈んで夕方、むくりと起き上がった男にアーチャーはそう声をかけ、じゅわっとフライパンを振るう。まだ眠そうだった男の腹が、音を立ててきゅるきゅると鳴るのにやや苦笑してしまった。
「夕餉か」
「野菜もきちんと摂ってもらわないと困るぞ?」
「おかしな奴だな。我がそうしなくて、何故おまえが困るというのだ」
そういえば、何故だろう。
思っているアーチャーにだが、と男は笑い、機嫌が良さそうに今度は喉を鳴らすのだった。
「今夜は泊まっていけ。久々におまえを抱いて眠りたい」
「誰かが聞いたら誤解するような言い方をしないでもらおうか。……まったく、泊まれと言うのならもっと前に言ってもらわないと困るのだがね。言っておかないといけないところもあるのだから」
「電話を貸してやる。電話番号くらい覚えているであろう?」
「……そうだが」
アーチャーはまた、ため息ひとつ。
まったく、本当に駄目な男だ。この男は自分がいなくなったらどうなってしまうのだろう。
そして自分は、この男がいなくなったとしたら。
…………?
今、自分は変なことを考えたな。
そう思いつつ気にしないことにしてアーチャーはリビングの隅にある電話に向かって歩いていった。電話番号を頭の中で暗唱する、暗唱する――――。
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