エプロンは用意してあった。
しかし端的に言えばそれだけだった。
「マスター、洗剤の買い置きが切れているのだが」
「アーチャー、私は思うのだよ。洗剤を買い溜めておくことなど……不要ではないかとね」
「…………」
渋く言われても、というものである。結果論で言えば不要ではない、アーチャーからしてみれば必要不可欠だ。だがマスターに事細かく言って聞かせるというのはどうも彼女のキャラ的に向いていなかったし、どうせ言ったとしても遠坂時臣という男はまず人の話を聞かぬ男であるのだからして。
ため息をひとつ漏らすとアーチャーはエプロンの紐をするりとほどいた。そして、
「それではあなたの弟子に言って少し分けてもらうとしよう」
「なるほど……綺礼であればいつも洗剤を切らすことなどないからな。まったく、優秀な弟子だよ彼は!」
その師である私も優秀である!
と言いたそうだったので黙って彼女は我がマスターを見つめた。憂いた鋼色のまなざしでじっと。
結局その日の夜、彼女はマスターの妻である遠坂葵に一本の電話を入れることになる。その内容と言えば――――。
『余所者が勝手に財布を握ることになって済まないが、全面的に彼の面倒を見ることを許してはもらえないだろうか?』
遠坂葵はいい妻であり、また理想の女性であったのでこれを快諾した。
というかアーチャーの(控えめな)訴えを聞いて却下するとか鬼である。鬼畜の沙汰である。
「言峰さん……申し訳ないが、洗剤と醤油を少し分けてもらえるだろうか」
教会の扉を開けたアーチャーを迎えたのは、言峰綺礼の父、璃正神父だった。璃正神父はその人好きのする相好を崩すと、アーチャーがまるで近隣の少女であるかのように両手を広げて出迎えた。
「おお、これはこれは。時臣くんは元気かね?」
「はい、変わりありません」
「それはよかった」
璃正神父は大仰にうなずくと、ええと……と宙を見つめて何かを探すような仕草を見せた。けれどそこには何もない。
どうやらそれが、璃正神父の物事を思いだそうとするときのポーズだったようだ。
「洗剤と醤油、だったかな……いやはや、この歳になると物忘れがひどくなっていけない。そういうことは全て綺礼に任せているのでね」
「お気遣いなく。彼は私が自分で探しますので、神父のお手を煩わせることは」
ありません、と言いかけたところでそこに第三者の気配がした。教会の奥にある生活居住スペースから出てきたのは話題になっていた、当の言峰綺礼だった。
「綺礼、ちょうどいいところに」
「……いいところに……とは」
「アーチャーが来ていて、洗剤と醤油を分けてほしいそうだ」
長身の綺礼は父の言葉に、無言でアーチャーを見下ろすように眺めた。アーチャーは己も無言のまま軽く綺礼に会釈をする。
「……こちらだ。着いてきてくれ」
必要最低限、それだけを言って綺礼は父と師のサーヴァントに背を向ける。
アーチャーは軽く瞬きをしてその背を見た後、慌てたようにもう一度軽く、今度は璃正神父に向けて会釈をしてみせた。璃正神父はそれにも近隣の少女を相手にするかのように、にこにこと笑んだまま、息子の背中を追うアーチャーの姿を見送っていた。
「付近は暗い。足元に注意してくれ」
「、ああ……」
自分はサーヴァント、それも鷹の目スキルを持つアーチャーのクラスだとアーチャーは思ったが、何も言わないことにした。
余計なことは口にしないのが彼女の長所だったし、せっかく相手が自分を心配してくれたのだからそれに反することを言うのも何だと。
しばらく暗い中、ふたりが歩くカツ、コツ、という音が通路に反響する。
「君は……」
余計なことは口にしないはず。それなのに、ふと、口から漏れてしまった言葉。
それにも綺礼の足が止まらなかったことに対してか、アーチャーは一瞬沈黙し――――たものの、すぐに言葉をつないだ。
「……君は、父君に愛されているんだな」
「父は、完璧である息子という型に嵌った私を見ているに過ぎない」
「君自身を愛しているわけではないと?」
「似たようなものかな」
「だから」
アーチャーは激することなく、穏やかに言葉を連ねていく。だから、と再度つぶやき、唇を湿らせて。
「だから、君は苦悩している?」
「――――」
カツン。
綺礼の足音が止まり、次いでアーチャーの足音も止まる。が、それはアーチャーが決定的な言葉を告げたからでもなくて、きっと、何か違う理由だから、で。
「!」
突然ぐるりと振り返った綺礼に、アーチャーは反応する。長身の綺礼が覆いかぶさるように壁に手をついてアーチャーを閉じ込めてしまえば、彼女には何の抵抗手段もないように思えた。
もし、彼女がただの無力な少女だったならば。
「……おまえは何を言っている?」
「……世迷い言だ。気にしなくともいい」
一瞬、空気がぴんと張り詰める。
次の瞬間それは雲散霧消し、綺礼はあっけなくアーチャーを解放した。
双方無言、くるりと綺礼は背を向けて、再び先へ向かって歩きだそうとした。
「?」
そのときだ。ごつごつとした大きな手が、アーチャーへと向けて差しだされたのは。
「手を引いていこう。師のサーヴァントに怪我を負わせたとなっては責任重大だ」
「…………」
私は。
サーヴァントだから怪我をしても問題ない、だとか、そもそも周囲は見えているからかまわない、だとか。
余計なことは何も言わずに。
「それでは、行こうか。……アーチャー」
余計なことは何も言わずに、アーチャーは綺礼の手を取った。そうして、彼と彼女はしばらくふたりきりで暗闇を歩いていったのだった。
「あーもう! あーもう! あのクソマスターマジ許さねえつーか殺す! マジで殺すぞダニ神父! あー!」
今日もまた、ランサーはマスターにやりこめられたようだ。
私がちゃんとマスターに言ってやれればいいのだけれど、どうも今のマスターはそれをしたとしてものらりくらりとかわしそうな気配があるしな。
まったく、昔は違ったのにどうしてしまったのだろうか。
ああ、ランサーがストレス過剰で倒れそうになっている。行かなくては。
そして済まないとひとこと詫びよう。
マスターの悪さは私の悪さだから。
そう言うとランサーはけろり、というほどではないが機嫌を治し、何事かぶつぶつとつぶやいているのだけど。
ランサーも不思議な男だ。
――――ぱたぱたと、足音が聞こえ彼女は彼に走り寄る――――。
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