「……アーチャー?」
「何だね、凛」
「あんた、またバイト先クビになったんですってね」


う、と言葉を呑む“つい先日まで少年だか少女だったかの家庭教師を努めていた(過去形、なお英語担当)”アーチャーだった。
ちなみに靴は脱ぎかけだった。


アーチャー青年は、少年の時に義父である切嗣と世界を巡っていたため自然と獲得した豊富な英語の知識と巧みな発音により、主に英語を担当に家庭教師のアルバイトをしていた。
だが、これが長続きしないのである。何故かと言えば――――その声と態度だ。
低く甘い、掠れたようなその声と。
柔らかな、人を跳ね除けない、悪く言ってしまえば誰でも受け入れてしまう態度。※ただし本人にその自覚なし
それで誤解しない少年少女などいないだろう。と、いうことで、アーチャーは本人がまったく自覚していないところで「お父さんお母さん、俺(わたし)、もうあの先生と勉強していくの無理!」と生徒に言われ、バイトをクビとなってしまうのだ。
「どうしてわかったんだ、凛」
「あんたがいつもの顔してたからよ。また男だか女の子だかをひっかけちゃったんでしょう?」
「わ、私にはそんな気は」
「はいはい、なくても向こうはその気になっちゃうの」
あんたの態度がいけないの、と凛が鼻で笑うように言えば、アーチャーは途端に落ち込んでしまう。それまで凛にバレないよう気を張っていたのだ。それが無駄となった今ではもう気を張る必要もない。全ては露呈してしまったのである。
靴を脱ぎながらため息をつくアーチャーに、凛は調子を和らげて。
「だからアーチャー、わたしもお父様も言ってるじゃない。家賃なんて入れる必要はないんだって、安心してうちに住んでいていいんだって」
お父様。
それはこの遠坂家の家長である、遠坂時臣のことである。彼を娘である凛は“お父様”と呼び慕い、とてもその年頃の少女とは思えないほど尊敬している。普通彼女の年頃ならば、「ウザい」「お父さんの下着とわたしの服を一緒に洗わないで」などと言う時期だろうに。
妹である桜共々、時臣を彼女たちは愛してやまないのだ。
「……それはいけない。居候である私が家賃も入れず、のうのうとこのような立派な家で暮らすなど……」
「…………」
「凛?」
無言で玄関にいるアーチャーへと近付いてきた凛は。
「っ痛!」
やはり無言で、前触れもなくアーチャーの額へと所謂デコピンをくれていた。
「り、凛……?」
「だーかーら、いつも言ってるじゃない! 居候とか何だとか、そういうのやめなさいって! あなたはわたしの家族、いえ、わたしたちの家族よ。桜もお父様もお母様も、みんなそう思っているわ。というか、言われているでしょう?」
「そ、それでも、私は、」
「お黙りなさい」
もう一発喰らいたい?と指をかざす凛に、咄嗟に両手で額をかばうアーチャー。それを見て満足そうに凛は笑うと、指先を引いた。
「結構」
「……君はサディストだな、凛」
「あなたがマゾヒストなのではなくて? アーチャー」
やけに淑女ぶった口調で凛は言って、先程アーチャーの額に触れた指先に軽くキスをする。
「今度雁夜おじ様が来たのなら聞いてご覧なさいな。自分の意見とわたしたちの意見、一体どちらが正しいのかって」
雁夜おじ様。――――間桐雁夜。
時臣と旧知の仲であり、凛と桜の母である葵に仄かな恋情を抱いていた、とかいる、とか。情報の正誤は定かではないが、とにかく好きであったのは確かだ。
凛と桜が小さな頃から遠坂家にやってきて、お土産を渡して遊んで帰って行ったという。今は仕事としてルポライターを細々と続けているようだ。
何かと苦労人であり、アーチャーとは秘かに仲がいい。互いの悩みについて話すこともそう少なくはなく、なので、アーチャーは雁夜には協力してもらえない、かと思っているの、だが。
……時臣は置いておいて凛と桜、それと何より葵が向こう側にいるのでは、どうにも勝ち目がなさそうだ。
「アーチャー」
思考を巡らせているところに凛の声。
顔を上げたアーチャーは、彼女の人差し指が示している先を見る。
「その脱ぎかけの靴。早く脱いで、上がりなさいよ。お父様にクビになった報告をしなくちゃでしょ」
「……う」
そうなのだ。
時臣もバイトなどしなくともいい、家賃など入れなくともいいと言ってくれてはいるが、アーチャーが我を張っている以上クビになった報告はせねばならない。
彼はまた笑うだろう。悪意などなく。“またかね”と静かな声で言って、整えられた顎鬚を指先で弄ぶ。
そうして言葉のないアーチャーに、言うのだ。


“それでは、いつものように紅茶でも煎れてくれないか?”


「そう、だな」
諦めたようにアーチャーは言い、脱ぎかけの靴を脱ぐ。
それで決心はついた。凛に連れられて、時臣の部屋に行く決心。紅茶は何がいいだろう。ダージリン?アッサム?何にしろ時臣の顔を見れば的確な茶葉が脳裏に浮かぶはずだ。
いつも、いつでもそうやってきた。
……それだけ、バイト先をクビになっている、という事実が重くのしかかってきてアーチャーの胃を傷めたのだったが。
黒い靴下。
グレーのスラックス。白いシャツ。
上着を手に、アーチャーは凛の後を追って廊下を行く。
失態の報告のために。それと、家長である時臣に紅茶を振る舞うために。
少しだけ笑ったのは、苦笑だったのか、それとも。



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