仕事帰りの夜、オレはまじまじと階段を見つめていた。
自慢じゃないがうちのアパートは今時めったに見つからないくらい古くてボロい、ある意味目玉物件だ。かろうじてトイレと風呂は各部屋についてるけど、震度3の地震が来たら即潰れそうな見かけからか入居者はオレとその隣の住人と大家くらいしかいない状況で。
大屋は一階の101号室、お隣さんは昼夜逆転のコウモリ生活なので夜に階段を使うのはオレしかいない、はずだったのだ。
「…………」
だけど今そこにはオレ以外の誰かが座ってる。
暗くて影になっちまっててよく見えないけど、確かにいる。はっきりとは分からないけど……多分、オレと同じくらいの背格好の誰か。
予想外の事実に直面すると人は思考が止まってしまうもので、オレはしばらくその影を見つめていた。
オレの部屋は二階にあるから階段を上らないと部屋に帰れない。
でも見知らぬ相手が座ってる横をさっさと通り抜けていけるほどにオレは図太くなくて、ついでに言えばここの階段は、子供二人でも横には並んで通れないほど狭かったりする。
どうすっかな。
止まっちまったまま動かない頭で他人事みたいに考えて立ち尽くす。
結構疲れてるから早い所夕飯食べて風呂に入って寝ちまいたい気分なんだが、一向に動きのない誰かさんはまるで寝てるみたいにさっきから全然動いてくれない。
もしかして、酔っ払いか何かが眠り込んでるんだろうか。
ぱっと脳裏に浮かんだ可能性に、はっと思考が覚醒させられる。覚醒した思考はついでに体中に指令を出して、誰かさんと同じように立ち竦んだままで動かなかったオレの足を前へと進ませた。
そうだ、酔っ払いだ。この辺はそういうの多いからな。飲み屋をはしごした帰りに歩けなくなってうちの階段で眠ってしまったわけだ。きっとそうだ。
迷惑な話だなあ、と苦笑いして歩いていくと、オレはその酔っ払いの肩に手をかけて揺り動かそうとした。
「もしもし? こんな所で寝たら駄目ですよー?」
冗談っぽくそう言って、肩辺りに手をかけた途端に違和感を感じた。
どこかむっちりとした柔らかい感触が触れる。ゴツいおっちゃん辺りを想像していたオレの頭はまた思考停止状態に陥りかける。
こっちを見上げてきた顔はとてもおっちゃんのそれではなくて。


「あんた、だれ……?」
目と口をぽかんと開けて間抜けな質問をしたオレを見ながら、立派な白髪にワンピースのようなずるずるの長い真っ赤な服というまるで仮装行列に出るみたいな格好をした誰かさんは、寝ぼけまなこで余った袖口で口端から垂れたよだれを拭い取っていた。


困った。
困ったな、オイ。
畳の上に胡座をかいてそう思う。
目の前の誰かさんは正座をしてオレの煎れたインスタントコーヒーを美味しそうに飲んでいる。
『あんた、だれ……?』
間抜けな質問をしたオレをじーっと見て、しばらく考えた誰かさんが返した答えはオレの予想範囲を遥かに超えた何というかエキセントリックな代物で。
『天使』
てんし。
まるで明日の天気を言うみたいな気軽さでてんし、なんて言われちゃそれ以上オレは何にも言えなくなってしまって。
あいにくそこで上手く切り返すだけのジョークのセンスも即座にキレて怒鳴りつけるだけのスタミナも仕事帰りであるオレにはなかったのだ。
天使。天使ですか?ああ、そうなんですか……。
そんな風に物分かりよさげに思うしか、その時のオレには出来なかったのだ。
本当は全然、理解なんかできていなかったんだけど。


とりあえず、本気でも冗談でもそんなことを平気な顔で言ってのける自称天使さんを放っておくことはオレには無理だった。
なんか、危ないし。いろんな意味で。
しょうがないよな、うん、なんて思ってみてもやっぱり心の隅ではどうにも納得が行ってないみたいで、何だか妙な違和感が滲み出してくるような居心地の悪い感じがして、オレは足をもぞもぞさせた。
「……で、あんた、なんでうちの階段に座ってたわけ?」
だなんて聞いてはみても、天使さんから答えは返ってこない。
家はどこ?歳はいくつ?お隣さんの知り合いか何か?
……などの数々の質問にも一切ノーコメントで、唯一返ってきた答えといえば、
“ワタシは天使です”。
確かにふわふわとした綿菓子のような白髪と裾を引きずるくらいの衣装はそんな感じだったけど、かといってこの世の中に天使なんてものがいるわけがない。
ここぞという時に神頼みはするけど、本当にお空に神さまがいるとはさすがにオレも思ってないし。
「はぁ……」
がっくりと肩を落とすと天使さんはちょっとだけカップから口を離してオレに注意を向ける。あー……何か不思議そうな目で見られたら、オレの方が間違ってるみたいに思えてくるからやめてくんねえかなあ……。
「疲れているみたいだな」
誰のせいだと思ってんだよ。
あ、思わず本音が。
「やっぱり私の目は間違っていなかった」
「は?」
「君、運が良くないだろう」
自分でも分かってることなんだが、他人からあらためて言われるとへこむ。
どうやらコーヒーを飲み終えたらしい天使さんはカップを置くとさっきまでの沈黙が嘘のように喋り出す。
「性格は悪くない。むしろ良い。人が良すぎる。だから災難ばかり引き寄せる、他人の分まで背負うんだ。それで処理しきれるのならいいけれど、君の不運はそんなレベルではない」
それはそうですが。容赦ない言葉にまたオレはべこっとへこんだ。
「だから、私が来たんだ」
「……なんで?」
「君を幸福にするために」
天使さんがしあわせを連れてオレのために空から降りてきた?
でも、鍵がなくて部屋に入れなくってオレが帰ってくるまで階段でよだれ垂らして寝こけて待ってたって?
ええと神さま。どうしたらいいでしょうこういう場合は。
「信じていないだろう」
どきんと心臓が跳ねる。
心を読まれて動揺してるオレをじっと見て、いきなり天使さんは前に身を乗り出してきた。
部屋の中に入れて、明かりの下で見た時も思ったけど結構好みな顔、が、相当な至近距離でオレの目の前にある。前髪が触れ合って鼻先が近付いて、下手すれば唇同士がくっついてしまいそうな距離。
砂糖とミルクを入れた甘いコーヒーの匂いがかすかに届く。
「仕方がないな」
あまりに唐突で、オレは目を見開くことしかできなかった。
いきなり顔を離されて、いきなり勢いよく立ち上がられて、いきなり目の前が真っ白になって。


「これで信じられるだろう?」
電球の傘を背負って生真面目に言うその顔はなるほど、堅物な天使さま。
その背中には、真っ白で立派な羽根が生えている。
ぱくぱくと動かしていた口に舞い散った羽根のひとつが飛び込んできて思いっきり咳き込みながら、オレは猛烈な混乱の渦に巻き込まれていた。
神さま。
どういうことですかこれは。
日に焼けて黄ばんだ畳に降る羽根は、どう見たって偽物なんかには見えなかった。


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