ひたひたと、ひたひたと、ひたひたと。
足音を繰り返し刻み付けてその男はやってくる。
彼ならば軽快にたったったっ、と駆けてこられるのにそうしないのは、わざと。わざとやっているからだ。たったった、と軽快に駆けてこなくて刻み付けるように追いかけてくるのは、ひとえに自分を追い詰めるためだ。
圧倒的に自分に勝る俊敏さ、それさえ捨てて鈍重に追いかけてくるのもそのためで、それに勝てない自分が口惜しい。自分のステータスでは一気に加速しても決して彼からは逃げられない。そんなことさえ考えずともわかる。だから、それでも、精一杯に逃げるのだ。
それについて追いかけてくるのは彼に連れ添う従者たち。彼らは喉元から唸りを上げて男と共に自分を追い詰める。
ぐるるるる、と響いてくるような唸り、体を震わせるようなその唸り。人ならば狂乱するようなその声に英霊である自分が恐れを感じることはないけれど、さすがに脅威くらいは多少感じる。
このままだと不味い。どうにか振り切って逃げられないものか――――。
だが、そんな願いもあえなく潰えた。目の前には行き止まり。森に出来た結界と自然の檻が、自分の行く先を封じていた。
「っち……!」
舌打ちひとつ振り返れば、そこには男と従者たち。男はつい、と、指先を一本自分へと向けて伸ばしてくると。


「――――行け」


とただそれだけをひとつ、従者たちへの命令として告げた。
があああああ!
そうすればたちまち従者たちは本性を露わにして襲い掛かってきて腕へ足へ胴へ腰へ喰らいついてくる。たった一匹ならば脅威にもならないその野犬たちは群れとなって多大な暴力性を帯びて次々と自分の体に喰らいついてくる。苦痛はない、けれど身動きが取れない。
どうすればいい。どうすれば……。思考するその間に、
「!」
湿った葉と泥の上に引き倒された自分の体の上に男が飛びかかってきていて、ご褒美だと言わんばかりに一番に曝されたその喉へと食いついていた。
「っ、うぅく、」
「……は」
血管に舌を這わせて男が笑う。やわやわと硬い筋肉を甘噛みして犬歯で皮膚を軽く裂いて。
本日の空模様とは裏腹の真っ青に晴れた空のようなような髪を後ろで無造作にくくって、それが肌に触れると変な感じにくすぐったい。
その間にも野犬たちはまるでそれがプログラムされた命令であるかのように自分の体を噛み続ける、苛み続ける、押さえ続ける。そうだ、野犬たちの仕事はあくまで自分を縛り付けるだけのもの。あくまでもそれだけで、決してそれ以上のことはしないのだ。
男が、命じない限りは。
そんな酔狂なことはしないだろうが――――と敵である男の気性に少しながら期待して、自分はどうにかマウントポジションを解除できないだろうかと思ってみる、けれど一度上に圧し掛かれた身としてはどうすることも出来ない。
がじり。
すると男が一際強く喉を噛んできて、思わず詰まった声未満の声を上げその喉を仰け反らせてしまう。肌に触れる髪、動物の毛のような意匠、金属で出来た首輪。
触れてくる触れてくる触れてくる、男のその全てが狂おしい。どうしたって自分を追い詰めてどうにかして屈服させようとする、そして己のマスターのところへと連れ帰って情報を吐かせるなり傀儡とするなり企むのだ。それは彼の意思ではなくて、きっとマスターの意思なのだろうけれど。
こんな様になってまで男のことを憎みきれないのは何故か?今も喉をざらりとした舌で舐め上げる男の全てを嫌いきれないのは何故か?わからない。わからない、わからない。わからないわからないわからない――――。
「アンタ、」
「…………」
「ろくに声も上げやしねえんだな」
つまらねぇ、と少し苛立った口調で言って男は裂けた皮膚からこぼれた血を舐め取る。それがどこか拗ねたように聞こえたのは何故なのだろう。
「乱れてみせろ。そうしたらオレも少しは考えを改めてやるかもしれねえぜ? ま、約束は出来ねえけどな」
どうしてもその口調が悪ぶったものに聞こえて、自分は男を憎みきれない。おそらくは自分より若いであろう男。野犬共などという傀儡まで使って自分を追い詰めてみせた、卑怯とも言える戦法を取った男、それを。
それを、自分は憎みきることが出来ない。
「……ち」
腕も足も使わないで、使うのはただ口だけで、それだけで男は自分を追い詰める。
口で自分を煽る言葉を吐いて、口で自分に喰らいついてきて。口だけで、ただそれだけで。
軽く今も舌を鳴らしてみせた男、それをどうしても憎めない。
野犬共など振り払えばいい。魔力を無理矢理、暴走させる勢いで解放させて諸共に吹き飛ばしてそして男を練り上げた剣で背中から突き刺せば。
そうすれば終わりだ。全てが終わる。


だが、どうしても、それが、出来ない。


野犬たちには罪がなく、また男にも罪がないように、自分にはそう思えるのだ。
けれどそれを男に告げれば男はまっしぐらに機嫌を崩し、自分をひどく嬲るだろう……いや。
きっと、そんなことすらも、彼は。


己の奥底に、魂に似た物を感じて何もかもが出来なくて自縄自縛。男はかつての自分にきっと似ている。だから自分は彼を憎めない。
間違ってはいなかったあの自分に似た男を、手にかけることが出来ないのだ。
結論が出てしまえば早かった。諦めるのは得意だ。
「…………」
「……何だ」
「…………」
「おい、アンタ」
赤い瞳が物々しく光る。けれど自分は。
「抵抗さえもしねえのか。……呆れたぜ。そいつは――――」
けれど自分は。
「そいつは、もう、どうされたっていいってこったな」


自分は、どうすることさえも、もう出来なかった。


野犬たちが唸る。
だがしかし男が我先にと唸る。これは自分の獲物だと。そうすれば彼らはおとなしく尻尾を巻いて引き下がる。彼らは所詮、男の手下でしかない。
目の前で我の血に濡れた犬歯が光るのを、自分は見て。
それが。
それが――――。


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