……怖い。この男の前で自分の感情を制御出来ない自分が。
「……あ」
声が漏れる。思わず、といった感じだった。まるで自分が自分でないようだ。震えている。体が、吐息が、意識が。ぐらぐらぐらぐら、震えて揺れる。もうすぐ立っていられなくなるだろう。かつん、と蹴躓いて倒れて、
「あ――――」
「っと」
抱きとめられた。裸の胸。とくん、とくん、と心臓の音。
「――――〜ッ」
一気に頭が弾ける。馬鹿になる。馬鹿でいい。構わない。だって勝てない、この男には。
「アーチャー?」
ささやきかけてくる声が好きだ。自分を駄目にする、この声が。
「あ、ぁぁ、」
顎を捕らえていた手が離れた。
それは喉仏をなぞって、鎖骨を辿り、緩んだ寝巻きの中へ忍び込む。跡。跡、跡、跡。散々自分で付けた跡を目を細めて愉しそうに眺め、男は――――夫は
「あぁ、」
と嘆息するような声で一息を搾り出した。
「すげぇ。すげぇ……やらしい」
自分でやっておいて何を言うのだろう。と、思っても止まらない。
「らんさ、ぁ、」
甘えるような声が出る。恥ずかしいという感情は吹き飛んでいた。頭が馬鹿になっていたから。額を、髪の横を、裸の胸に擦り付ける。水の匂いと、ボディシャンプーの匂い。それから、雄の匂いがした。風呂に入ったばかりだというのに、消しきれない男の匂いが。
「……ん?」
髪を弄る指の動きが好きだ。喉を撫でられる猫のような心持ちで感じ入っていると、秘かに笑う声が聞こえる。廊下。子供が駆け抜けていった場所。いつ戻ってくるかわからない。落ちた水滴。点、々、と子供の足跡を示している。いつ戻ってくるかわからない。それでも廊下で、男に触れられている自分。
目がとろん、と自分で蕩けるのがわかった。匂いで蕩けた。それと温度。程よく湯上りで熱せられた温度に煽られた匂いが鼻先で香る。朝、ベッドを整理する時にたまに香る匂い。夫は髪を乾かさないで眠る。それでも寝癖は付かなくて、その髪の艶やかさが自分は好きだ。
「アーチャー」
もう一度、夫が名前を呼んでくる。背筋を、つうっと指が撫でた。
「ひぅ」
竦んだ声が出る。押し付けた額を、髪を、もっと押し付けて振り乱して悶えた。耳のすぐ傍で声がする。耳朶を噛み千切らんとばかりの近くで、声が、
「――――部屋で、な?」
「……あ」
ちゅっ、と耳元も耳元で鳴る音。夫はそれを最後に身を離すと、にっと笑って横をすり抜けていく。遠くで子供の声がした、おやじー、おふくろー、そんなとこでいったいなにやってるんだよー、…………。
くたくたと崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。すう、はあ、と息を整える。ぱしぱしと何度も頬を平手で叩いた。きっと顔は真っ赤だ。叩いていなくても、熱のせいで。
「……たわけめ、」
吐き捨てたのは、もちろん自分に対してだった。



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