Kiritsugu
ランサーは廊下を歩いていた。
二階にある、一応に与えられた自室から階段を降りて。怠惰に降りて。
皆々の部屋の前を通り過ぎ、ふと通り過ぎかけた部屋を覗いた。陰のような場所。――――そこには。
「……アーチャー……?」
声を発したものの、彼はそれに気付かぬように何か、黒い布切れのようなものを手にしている。横には小さめな箱。
きっと、布切れのようなものは誰かの衣類で。小さな箱は、それを仕舞うためのものなのだ。
とてもとてもとても少ない量を、仕舞うためのもの。
カタン、
「あ」
発したのは、またもランサーだった。
アーチャーはしばらく布切れに視線を落とした後。
「…………ランサー」
そっと、こぼすように、彼の名を呼んだ。
そこには秘密の現場を覗き見られたような慄きはない。ただじっと、布切れを大事に膝に広げて、ランサーを見ている。
ランサーは一歩、部屋の中に踏み込んだ。するとふわり、と香る苦いもの。ランサーは悟った。すぐに。己の身にも、それは染み付いたものだ。
「エミヤ、キリツグ」
「…………」
沈黙は肯定だった。薄闇の中、よくよく見てみると黒い布切れは、それは、ダークスーツ。
衛宮切嗣。アーチャーの、衛宮士郎の、英霊エミヤの義父であり、ある種の呪いめいたものを残していった者。
ランサーは知らない。衛宮切嗣のことなど。アーチャーは話したがらないから。ただ、それは嫌だということではなく。
とても、とても大事なものとして、胸に抱えて仕舞ってあるのだ。だから、話したがらない。だから。
「……着れないな。私には、とても」
着るつもりだったのか、とランサーは思う。そしてアーチャーの顔を見て、はっとした。
くすくすと、アーチャーは笑っていた。しかし、ひどく切なそうに。
「爺さんは、私が“衛宮士郎”だった頃はすごく大きく見えたんだ。……だけど、こうして見ると」
小さな、ものなのだな。
そうだ。衛宮切嗣のダークスーツは、今の“エミヤシロウ”にはとてもではないが着れないだろう。
けれどそれを見てアーチャーは落胆などしなかった。ただ、ただ懐かしそうに笑って、膝に抱えたダークスーツを目の前に広げてみせた。
「爺さん」
そうして、アーチャーは。
義父の、衛宮切嗣のダークスーツを胸に抱えた。かすかに残る煙草の匂いを吸い込むようにすうっ、と呼吸をして、目を閉じて。
「大きくなったなと」
「…………」
「爺さんは、私に言ってくれるだろうか」
あなたのスーツを着られなくなった私……オレに。
ランサーは。
「――――」
手を伸ばすと、アーチャーの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。まるで衛宮切嗣の代わりであるかのように。それでもランサーはランサーで、衛宮切嗣では決してなかったのだけれど。
それでも。
それでも、それでも、それでも、それでも。
どっかりとアーチャーの隣に座り込む、その寸前に革パンの尻ポケットから煙草の箱を取り出して、一本を弾き出すと。
口端に咥えて、同じくいつの間にか出していたライターで火を点けた。
漂う紫煙。匂い。苦い、けれどもどこか甘い。
「言うさ」
「…………」
「きっと」
アーチャーは。
ダークスーツを胸に抱えたまま、ランサーに肩を抱かれ。
「ああ……ああ――――」
ありがとう。
そう言って、とても自分の体には似合わない。
寸足らずのスーツを抱えて、嗚咽じみた声を漏らして、いた。
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