庭先で軽々と青年が跳ねる気配がする。
そして大型犬のジャンプ、舞うフリスビー、キャッチ。
「よし、よくやった!」
その犬に名前はない。理由も特にない。存在があればそれでいいとふたりで決めたのだ。
きゃっきゃとひとりと一匹が戯れる気配を背中に感じながらアーチャーは、少し遅めの昼食を作る。チキンライスにとろとろの卵をかけた、オムライスの亜種。
「ディルムッド!」
「はい!」
名前を呼ばれれば彼もまた犬のようにアーチャーの元に駆け寄ってくる。その後を追う大型犬も共にリビングまで入ってきてしまいそうな勢いだったがそこまで辿りつくと勢いを緩めて腰を落とし、へっへっへっと息を継ぐ。
ちょっと馬鹿で、だけど利口な子。アーチャーは大型犬を、そして青年をも、そう思っている。
「ケチャップで文字を書いてやろう。何がいい?」
「はい? はあ……ええと……」
真剣に悩みだしたのが微笑ましくてつい、アーチャーは相好を崩してしまう。ああ、なんて幸せな悩みなんだろう。そんな悩みを彼に与えてあげられるのが誇らしい。こんな自分でも。そう思える。
素直に、そう思える。
彼のおかげで自分の心を魂を包む氷は髄分と溶けて中味を見せかけている。
いつか燃え上がるような情熱を青年は持つのだろうか。ディルムッド・オディナ。第四次聖杯戦争の生き残り。いや、これは正しくはないか。大聖杯はエラーを起こして彼ら。“亡霊”たちを十年後の世界に呼び出した。受肉に近いような症状で。だから彼らはマスターからの魔力供給がなくとも、人間の摂る食事や睡眠などをとっていれば生きていられる。 たとえそれが仮初めであろうと。いつ終わるか知れない天国であろうと。
世界の気まぐれが続く限りは、生きていられるのだ。
「じゃあ、その」
しばらく悩んで、青年は、ディルムッドは言った。恥ずかしそうに俯いて、小さな声で、ぽつりと。
「エミヤ、と」
「は?」
「エミヤ、と書いてくださいと言いました。あなたの名前です。あなたの料理はとても美味しい。そこにあなたの名前を書けば、もっと美味しくなる気がするんです」
「…………」
ディルムッドにはアーチャー、エミヤの真名を教えてある。片一方だけではアンフェアだから。
それにしても、エミヤと来たか。
いや、難しくはない。たった三文字、しかも手先の得意なバトラー(執事)として呼び出した方がいいのではないかと周囲から言われまくるアーチャーである。オムライスのてっぺんに“エミヤ”と書くなど至極簡単なことだ。
だけど。それが。ひどく。
……その、恥ずかしい。
「……あの、ディルムッド?」
「はい?」
「本当に?」
「はい?」
二度、同じ口調、同じ転調で聞いてくるディルムッドにアーチャーは。
「私の名前などを? 君の食べるものに刻んで良いのかね……?」
するとディルムッドは目を見開いて。
「是非に!」
そしてずずい、と一歩迫ってくる。アーチャーは思わず一歩後ずさってしまった。しかしそれを追うようにディルムッドは、また一歩迫ってくる。
まずい。これは。
「ディル、」
「あなたの名だからです!」
ほら、来た。
「あなたの名だからです! あなたの作ってくださった料理に、あなたの名を刻む! これがいかほどに大事なことか、あなたにはわかっていますか……エミヤ、さん」
最後はささやくような甘い声で言うから。
顔が耳が熱くなるのをアーチャーは感じながら、そろそろとディルムッドを押し返そうとする。褐色のてのひらはバリケード。
「わかった。わかった、書こう。だから、その、」
「はい?」
まただ。
「だから、その、」
「はい?」
「…………近い」
間が空いた。
ディルムッドはぽかん、とした顔をして、次の瞬間その白く端正な顔をぼっと赤くする。それからしどろもどろになりながら、よろよろと足取りも危なっかしく後ずさって。
「あ、そ、ですよ、ね、近かったですよ、ね、すいませ、俺、気がつかなく……わっ!」
「!?」
思わず庭へ続く段差に突っかかって転げ落ちそうになったディルムッドの手をアーチャーは掴む。だがウェイトの差。
「……うわっ!」
「…………っ!」
ごろごろごろん。
わふわふわふわふ!
「…………」
「…………」
大型犬がディルムッドとアーチャーの顔を同時に舐める。べろべろべろ。その舌は大きく厚い。
「わ、わ、わ、わ、」
そろって声を上げるふたり、どうにかして大型犬を押しのけて起き上がり、涎まみれの顔を見合わせて。
弾けるように、笑い声を上げたのだった。


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