教会に響き渡るは、歌。
朗々としたその声は空気を震わせ、伝え、どこまでもどこまでも広がっていく。侵すように。
犯すように。
その教会には男がふたりいた。ひとりは神父服の、おそらくはこの教会の責任者であろう黒髪の男。そしてもうひとりは奇妙な衣装を纏った白銀の髪の男。
歌うのは黒髪の男。胸元に片手を当て、目を閉じて朗々と歌う。
一方の白銀の髪の男はと言えば、虚ろな視線を床に落とし、その歌を聞いている。――――ように見えて、実はその耳は何も、受け入れていないのではないか?己の殻に閉じこもり、何も聞いていないのではないか?
鋼色の瞳は曇り、そんなことを思わせるようなまなざしだった。
やがて神父の歌が終わる。それは鎮魂歌かと思えば、実は。
「これから生まれてくる子のために心を込めて歌ったのだが。……どうだ? アーチャー」
アーチャー、と呼ばれた男はしかしぴくりともしない。曇ったまなざしで床を、己の靴先を見つめている。
そうだ。
神父が歌っていたのは死した魂を鎮めるものなどではなく、今まさにこれから生まれてくる子のために捧げる、子守唄。
けれど、だから?
だからどうだと言うのだ?
この教会には神父とアーチャーのふたりしかいない。そして神父はアーチャーに向けて子守唄を捧げた。と、すれば。
かつ、こつ、かつ。
靴音が響く。
長椅子に腰掛けたアーチャーの傍まで歩み寄ってきた神父は、ふと口端を上げると。
アーチャーの平らな腹に、己が無骨なてのひらを寄せた。
「おまえが“この世全ての悪”をその身に孕んで幾らほどになる? 人間の子なら十月十日経てば生まれてくるのだがな。……やはり、しばしの辛抱が必要か」
神父はそう言ってくつくつと笑う。その度に首にかけられたロザリオがちゃりちゃりと音を立てて鳴った。


“この世全ての悪”


それを心核とする神父は、その手先である泥をアーチャーへと無理矢理に植え付けた。それからこう言った。
『おまえの体は泥を孕んだ。黒化することはないが、いつか“この世全ての悪”を産み落とすだろう。間桐桜があてにならぬ今、代わりはおまえしかいない』
なあ。
血と泥で汚れに汚れきった“反英雄”よ。
泥をその身に含まされ、呆然とするアーチャーの耳元で低くそうささやいて、言峰はその耳朶を噛む。アーチャーはびくり、と一度震えたが、それだけだった。
その時は、まだ彼のまなざしに光はあった。けれど。
『大丈夫だ、“仔”を取り上げる時は私が自ら施術してやろう。それとも自然に生み落としたいか? 望まぬ懐妊だ、それくらいは選ばせてやる』
『――――っ』
干将・莫耶。
アーチャーの主力武器であり、二つで一対の夫婦剣。それを投影して一気に神父へと斬りかかろうとしたアーチャーの動きがぎしり、と止まった。
まるで糸が絡まった操り人形みたい。ぎし、ぎし、と体は何度も軋んで、最後にはアーチャーは床に膝を突いてしまった。
『…………!?』
『愚かだな、アーチャー。泥をその身に含まされて、動きが自由になるとでも思っているのか? おまえの体はもう泥に支配された。自分の意思で動くことなど出来はしない』
『……っ、の、』
立ち上がろうとする。だけど出来ない。
重力が圧し掛かってくるような圧迫感を感じながら、アーチャーはとうとう床に這ってしまう。
それを見下ろしながら、能面で口元だけを歪めて神父は笑った。
アーチャーはそれをぎりりと歯噛みをして見上げたが。


それから先の、記憶はない。


「膨らんでは、こないようだな」
アーチャーの腹を擦り、神父が笑う。アーチャーが泥を含まされてからしばらくが過ぎたが、アーチャーの腹に膨らみはない。
それを望んでいたのだろうか。いや、きっとそうではない。
そんなこと、神父には興味のないことだ。
体の変化など、どうでもいい。ただこの世へと、全てへと災厄を齎す“この世全ての悪”が生まれればそれでいい。
それでも神父は笑みを浮かべ、アーチャーの腹を擦る。
さながら愛しているかのように。
どくん、どくん、と神父がてのひらを押し当てた腹の部分が胎動している。ああ、きっともうすぐ。
焦らずとも、望むものは生み落とされるだろう。そうやって世界は破滅を迎える。
世の中の有象無象共と一緒に神父も死ぬかもしれないけれど。
それは、きっと愉悦だ。望んだものの誕生を見て、それから死ねるのだから。この世全ての悪。その誕生を見届けてから、死ねるのだから。
死に悔いなどない。むしろ待ち侘びている。だから早く。
「早く、私とおまえの仔を生んでくれ――――」
アーチャー、と。
相変わらず膨らんではこないアーチャーの腹を擦りつつ神父はささやく。嬉しそうに。楽しそうに。約束が叶うのを願う子供のように。
アーチャーの鋼のまなざしは曇っている。
彼の自我は既にない。とっくのとうに壊れてしまった。泥の侵食のせいか、それとも他に理由があるのか。
けれど、もう、そんなことは彼にとってはどうでもいいことなのだろう。
先に待っているのは破滅でしかない。
天井のステンドグラスから差し込んだ光が、その何かに濡れた褐色の頬を照らした。


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