泥。
泥泥泥泥泥泥泥。
真っ黒で、粘ついて、糸を引く泥。
それを認識した途端、口ににぃ、と同じく粘着質な笑みが彩った。おかしな話だ。
黒しかないのに、彩るだなんて。
「は、はは」
笑う。笑う、わらうわらうわらうわらう。だって自分にはそれしかない。今の自分にはそれしか。
嘘。本当は他にもいっぱい持ってる。数え切れないほどたくさん。自分でもぞっとするほどたくさん。


狂ってしまった自分でも、ぞっとするくらいだなんておかしなくらいたくさんの感情を自分は持ってる。


例えば憤怒。
「は、はは」
繰り返してその首を掴む。苦しげに喘ぐのを構わずに吊り上げてぎりぎりと締め上げる。その表情がいい。
例えば愛おしさ。
「はははは、は、」
今度はちょっと変調して指に力を込める。するともっとその顔が歪んだ。ああ、いいな。愛おしいな。
……潰したくなる。
「はははは、は!」
例えば、無。
あれ。
おかしいな。
無、ってのは何もないってことじゃないか。今の自分はいっぱい持ってる。たくさん持ってる。それならおかしい。無なんて変だ。
修正しなくちゃ。修正修正。…………。
よし、完了。
代わりにさっきの憤怒を宛がって、当然のように溢れ出てきた衝動に任せて決して細くはない首を絞めていく。極まっていく瞬間がいい。ばきり、と。
最期は手の中で音を立てて折れてくれるだろうか?それくらいの感情を込めて絞めてるんだから答えてくれなきゃ嘘だ。
そう、嘘だ。嘘、嘘嘘嘘嘘嘘だらけ。この世の中なんて全部嘘だらけ、忠義も願いも恐怖も全て全て嘘。だから大丈夫。もう怖くない。もう自分が怯えることはない。
……怯える?
なんで。
ぎりぎりぎり、首を締め上げる。歪む顔。触れたいな。その頬に触れたいな。薄汚れたその頬に触れたいな。戦って戦って戦って結局は負けて、敗北して、その末に傷ついて薄汚れたその頬に触れたいな。そうして優しく優しく撫でてやりたい。まるで愛するみたいに!そしてその次の瞬間、五指の爪を立てて開いた傷をさらに広げてやるんだ。
あはは。
それはいい。
「く、あ、」
初めて、自分以外の声を聞いた。それまでもその声は漏れていたのかもしれない。だけど、聞こえなかった。何でかって?知るわきゃない。
とにかくせっかく聞こえたんだ、聞いてみよう。内心わくわくして締め上げる手の力は緩めないまま耳を寄せていくと。
「……ぐ、きみ、は、こんな、」
こんな?
こんな、何?
思ったけど聞き返さず泡を吹きかけている口元に耳を寄せて黙っていると、鋼色の瞳が焦点を失って、それでも奥底の力は失わず見据えてきて。


「きみは、こんな、そんざいじゃ、ない、」
「……へえ?」


初めて、会話というものをした。吊り上げたままの口端。それをそのままにして問いかける。ずっと前からそのままの口調で。
「じゃあ、どんな存在だって言うんですか?」
「も、っと、」
「もっと?」
驚いた。
ちゃんと会話が出来るもんだな。いや、相手がじゃなくて自分が。 だって自分はとっくに狂っちゃってるもんだとばっかり思ってたから。壊すだけのものになったとばかり思っていたから。
詰問するような口調でだけど緩やかに、追い詰めるように自分は問いかける。最期の言葉は聞いてあげよう。それでずっと、覚えていてあげよう。この黒い泥の中で、自分がどれだけ存在を維持出来るかどうかが問題なんだけど。
相手は力を持った瞳でこちらを睨み付けてきて、途切れ途切れにつぶやいた。
「きみ、は。きみ、は、もっと、きれいな、」
「……はは」
残念だ。
最期の言葉がそんな言葉だなんて。
だって、“綺麗”だなんて。


今の自分のどこにそんな要素があるってんだ、この野郎!?


「思い上がらないでくださいよ、もう俺は以前の俺じゃないんです、エミヤさん」
……エミヤさん。それって、誰だっけ。
「俺は、変わったんです。もう何も怖くない。変わったんです。昔の俺とは全然違う」
全然、というところで首を左右に静かに振って俺は言う。
反対に締め上げる手の力は変わらないまま。むしろ、強くなっていきながら。
そうだ。俺は変わった。もう何にも怖くない。誰も俺を傷つけられない。俺が皆を傷つけるんだ。そうなるんだ。はは、とても素敵じゃないか。
「ねえ、エミヤさん?」
呻き声。喘いでくれればいいのに。まあ今の状況に色っぽさを期待しても無駄ってもんか。
そう納得して、俺はかつて愛した人の、今も愛している人の、そして最期まで愛しながら果てていくであろうひとの名前を呼んだ。
「ねえ、エミヤさん。さいごに、俺の名前を呼んでくれませんか。最後に。最期に。二重の意味で俺の名前を呼んで。お願いですから」
締め上げる力はそのままに。
俺は、にっこりと微笑んでみせた。まるで夢見る子供みたいに。
そんな俺の顔を見た彼は言った。吐き捨てるように。


「……まっぴらごめんだ。もう今の君はかつて私が愛した君ではない。さようなら、ディルムッド・オディナ。もっと違う形で、君とは最後を迎えたかったよ」
「――――ッ」


首は全力で締め上げていた。
だから、そんな流暢にべらべらと喋れるわけはなかった。
だから、それは狂った俺の見た厳格な幻覚の彼だったのかもしれない。
とにかく俺は速やかに彼の首を折った。言い知れようのない恐怖に怯えて、すぐさまそうしてしまおうと、すぐさまこの恐怖から逃れてしまおうと、両手に力を込めて彼の決して細くない、褐色の首を折った。
「……はあ、はあ、はあ、はあ、」
気付けば全力疾走した後のように全身が汗に濡れて、息は乱れて荒かった。彼の死体なんて目の前には転がってなくて、穴の前には自分ひとり。
「……あれ?」
ゆめを、みていたのかな?
そうだ。
そうだ、きっと。
あのひとが、あんなひどいことをいうはずがない。かつてあいしたおれに、あんなひどいことを……ふるえがくるくらいひどいことをいうはずがない。
うんうんとひとり……独りで何度もうんうんと頷いて、俺はとりあえず汗を拭おうと手を取り上げる。
そこに見る。


誰かの首を絞めた痕を、明らかに誰かを絞殺した、確かな赤さを持ったその痕を。
「……うっ」
吐いた。
泥を、吐いた。
吐いても吐いても吐いても泥しか出てこなくて、目からは真っ赤な血の涙が溢れ出て。
ぽたぽたと滴るから、吐きながら拭って俺は泣いた。
たった独りで、ずっとずっと泣き続けた。
狂った夢の中で、もしかしてたぶん現実の中で、ずっとずっと独りで子供みたいに加減なく泣き続けた。


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