どうせなら浴槽いっぱいの氷を浮かべたいとランサーが言って、それに呆れた様子で君はレモネードの海に浸かる気かねとアーチャーが言った。
あまりにも暑い某八月、クーラーも扇風機もない遠坂邸で留守番を強いられたランサーとアーチャーはリビングで顔を突き合わせていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「なあ、何か話そうぜ」
暑くて窒息しそうだとランサーは言ってからん、と溶けかけた氷の浮かぶアイスティーが半分ほどのところまで残ったグラスを指でなぞる。そうすればびっしり付いた水滴が白い指を伝って、テーブルの上に落ちるとすぐさま丸い水滴となってそして、崩れた。
「この暑さでは会話するだけで疲れるだろう。余計な体力を使うだけだ」
「逆だろ逆。黙ってるだけで暑さが増すってもんだ。暑苦しい。内にこもる。熱気がな。だから喋って逃がそうぜ?」
「生憎と、私は忙しい」
短く切って捨てるようにそう言うと、アーチャーはランサーの目の前からグラスを取り上げようとする。あー、と、すかさず上がる抗議の声。
「まだ飲んでる!」
「もうぬるくなってしまっているだろう。新しいのを入れてくる」
「そりゃそうだけどよ……」
びっしりとガラスのグラスに玉のように貼り付いた水滴。それは暑さがアイスティーと氷の冷たさを全力で奪いにかかっているという言わば、戦争に似た何かを思い起こさせてそんなことしても何の役にも立たないのに、とランサーをぼんやり思考させた。
「あ」
そこでぴこん!とランサーの頭の上に電球が光る。――――もちろん本当に光ったわけではない、何かを思いついた際の古い漫画的表現だ。
「アーチャー!」
「何だね」
忙しいのだが、といつもの黒の上下の袖をまくって振り向いたアーチャーに、テーブルをばん!と叩いてランサーは。


「プール行こうぜ!」

…………。
そんな暇はないだとか。そもそも今は留守番中だとか。
色々言いたいことはあったけど、ランサーの顔があまりにあまりにもキラキラ輝いているので、何も言えなくなってアーチャーは口を紡ぐ。むぐむぐと噛んで、ようやっと言えた言葉がこれだった。
「……断る」
「なんで!」
「忘れたのか? 凛に“庭の手入れ以外に外に出たらどうなるかわかってる?”と言われたことを。つまり私たちは軟禁状態にあるのだぞ?」
その言葉にランサーはきょとんとして。
「家の中にあるじゃねえか」
「何が」
「プール」
「?」
それで。
「狭い。もっと体を縮めてくれ」
「おまえの方が図体でかいだろ? でもまあ、楽にしろよ」
笑いながらランサーが膝頭で器用にアーチャーの腹筋をつつく。ばしゃんと水が跳ね、その中で体を捩ったアーチャーは迷惑そうな顔でランサーを見た。
水の中は奇妙な浮遊感がある。己の体だというのに自由にならなくて、それが何だか奇妙に感じて、アーチャーは眉を寄せてしまう。
“おまえんとこの浴槽に水張って、プールの代わりにすりゃいいじゃん”
ランサーの放った提案は豪快なもので、思わずアーチャーは言葉を忘れた。プール。あまりにミニマムなプール。
遠坂家の浴槽は時代感あふるる猫足のそれで、大の男がふたり入るにはちょっと狭い。それでもランサーは一緒に入ろうとアーチャーに強請って、水着の着用を義務付けることを約束させてようやっとアーチャーを口説き落としたのだった。
「でもなー。やっぱりオレたち付き合ってんだから、こっちでも裸の付き合いをって、いてっ」
「軽々しくそういうことを言うな、たわけ」
ぴしゃりと水音でなく言葉で跳ねつけて、アーチャーは浴槽から腕を出す。水を張ってもまだ生温い浴室の空気。けれど、水の中に入ればそれなりに涼しい。
大量に氷を入れたいと主張したランサーではなかったが、もっと水温を下げてもいいかもしれないとアーチャーも思った。
ふう、と吐いた息が熱くはなく、微妙に生温くて、ああ、夏だなあ、とアーチャーは実感する。
浴槽の中で体を広げるランサーの髪は解かれていて、水に任せるままたゆたっている。
アーチャーはふとその髪に目をやった。透明な水の中でたゆたう青い髪。それは美しく透き通るようで、思わず目を奪われて。
「……アーチャー?」
不思議そうな声を上げるランサーには構わず、アーチャーはその髪をひとふさ手の上に乗せた。そしてほう、と見惚れる。
「何やってんだおまえ」
答えのないままにその髪を編み始めたアーチャーにさすがのランサーも驚いたのか、目を丸くしている。さっさと青い髪を三つ編みにしていくアーチャーに声のないランサー。
ぴとん、と水滴が天井からその肩に落ちて、彼は体を震わせた。
それでも構わずアーチャーは髪を編み続ける。節くれ立ってはいるが繊細な手先。それはひとふさが終わればまたひとふさを手に取って三つ編みに編んでいき、やがてランサーの髪は細かい無数の三つ編みで彩られることになったのだった。
「…………」
「…………」
「……アーチャー?」
「……うん?」
「……何か言うことは?」
「……似合うぞ?」
「ちげーだろ!」
ばしゃん、と水面に思いっきりてのひらを叩き付けてランサーが吼える。それにきょとんとしたアーチャーが大きく上がった水しぶきをもろにかぶって、両目をきょときょととさせていた。
八月某日。今日も、暑い。


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