「いけなかったんだよ。いけなかったんだ、士郎」
くたびれたダークスーツを身に纏った男は訴える。目の前の、自分より体躯が大きな白髪の男に、まるで子供に語りかけるような声の調子で。
いけなかったんだ。いけなかったんだ、君はこっち側に来ちゃ。
「……いけなかったんだ。それなのに、士郎」
僕はそれを防げなかった、と男は――――衛宮切嗣は言って、士郎と呼ぶ白髪の男――――アーチャーの腕を掴もうとして、出来なかった。
触れることが出来なかった。触れてはいけないと、瞬間的にそう思った。


爺さんの夢は、俺が叶えてやるよ。
そう、幼い頃のアーチャーはそう言った。彼がまだ衛宮士郎であった頃。幼くて幼くて、切なくなるほど幼くて。
“正義の味方”というものが本当はどういうものなのか知らずに。
養父が目指したというだけでそれを引き継いで、目指していこうと夢見ていた。けれどいけなかったのだ。
切嗣は、士郎に……アーチャーに呪いを残した。必ず正義の味方になれと。不幸な人たちを救って、掬って。手の内からひとりたりともこぼすことのないように、と。
切嗣がそう言ったわけではない。アーチャーがそう勘違いしたのだ。受け取ってしまったのだ。切嗣は安心した、とは言った。けれど、こんな事態は望んでいなかった。そう――――。
あの、ひとりだけ救うことの出来た幼い子供が、将来。人を殺す装置に成り果てることなど。一片たりとも望んではいなかった。
「爺さん、そんな風に言わないでくれ。爺さんの願いを叶えられただけで、オレは」
「違うんだ士郎。僕が、僕が全部悪いんだよ。君に無責任にも呪いじみた烙印を与えて、そのまま逝ってしまった。いけなかったのに、それだけは」
幸せになってほしかった。
自分が叶えられなかった夢を、子供には叶えてほしかった。ただひとりの人間として幸せになって、そして死んでいってほしかった。
だというのに自分のせいで、と切嗣は嘆く。自分のせいで、息子は死ぬことさえ許されない存在になってしまったのだと。
それを知った時は絶望した。一度目絶望して、縋る自分に笑ってみせた息子に二度目絶望した。いいんだよ、爺さん。オレは。
オレは大丈夫だから。
そんなことを言わせる羽目になった自分が許せなくて不甲斐なくて、それでも、もう何も出来なくて。
もう、切嗣には何をすることも叶わなくて。
それが。
それが、あまりにも口惜しかった。
「士郎、士郎、そんなこと言わないでくれ。そんなことを言いながら、そんな顔で笑わないでくれ、頼むから」
頼むから、僕をこれ以上絶望させないでくれ。
なんて自分勝手な願いだろう。だが本心の、心底からの願いだった。
それをアーチャーは不思議そうな顔で見て、どうして?と問いかけてきた。どうしてだ?爺さん。
「オレは成ったのに。爺さんの夢だった、“正義の味方”になったのに」
ああ。
切嗣は、激しく狂おしく絶望した。
僕が。僕がこの子をこんな風にした。久宇舞弥の時もそう思ったのに。つくづく自分は懲りない男だと狂おしく思った。
久宇舞弥の時も、この女を自分がこんな風にしてしまった、と、そう思ったはずだったのに――――。
それなのに、また繰り返すのか。愛おしい存在をまた自分の手で。
引き裂いておいて、けろりとした顔で心中を荒らすのか。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。誰にも届くことなき謝罪。ごめんなさいごめんなさい、……ごめん。
ごめん。ごめんよ。……士郎。僕が。
僕が君をこんな風にしてしまったんだね。
「爺さん、喜んでくれないのか? せっかくオレは“成った”のに」
「士郎」
今度こそ。
今度こそと念じて、切嗣は腕を伸ばした。そして目の前のアーチャーの腕を掴む。
突如そんなことをされたアーチャーはきょとんとしていた(切嗣はその表情に幼い時の士郎を想起した)が、「爺さん?」と小さく声を上げる。
「士郎。……ごめんよ」
「どうして爺さんが謝るんだ。……オレは何か間違ったことをしてしまったのか?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
互いに謝り、誤りあっている。
切嗣も、アーチャーも。詫びて、壊れて。
理由もなくごめんなさいと口にする。
「爺さんごめん、だからそんな風に――――」
「違うんだ士郎、悪いのは僕なんだ、僕なんだよ!」
声を張った切嗣に初めてアーチャーが動揺したような様子を見せる。けれどすぐに落ち着きを取り戻して、
「爺さんが悪いことなんて何ひとつないよ。悪いとしたら、オレが全部悪いんだ」
ああ、ああ。
この子をこんな風にしてしまったのは自分なんだろうか。いいやそうに決まっている。
絶対的にそうなのだ。
「士郎……」
腕を掴んだままずるずると滑り落ちていってしまう切嗣を、アーチャーが心配そうな声で呼ぶ。爺さん。
ああ。戻れたらいいのに。
あの理想を小さなあの子に告げたあの時へと、戻れるのなら自分はどんなことでもしよう。
そうすれば目の前のこの子が呪いを被ることはない。そして“正義の味方”だなんてものにはならなかっただろうに。
何でもいい。今の彼でなければ。正義の味方という呪いを打ち消せるのなら自分は何でもしよう。
「爺さん……?」
存外に幼い声を、絶望したまま切嗣は遠くに聞いていた。


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