遠坂邸の一室を与えられた弓兵は一応はそこに住まってはいたが、その部屋に生活感というものはまったく存在してはいなかった。なにしろ、必要ないのである。生活雑貨、趣味の小物、なにもない。ただ机の上に一冊の聖書が置いてあるだけだ。
意味などない。飾りとして置いてあるだけだ。たまにめくってみることもするが、本当にごくまれにでしかない。教えを乞うこともない。 ただ、それはそれとしてそこにあった。
机と椅子とベッド、聖書。それと白いカーテンが弓兵の部屋のすべてだった。動かないそれらが。
まるで自分のようだと思う。停滞している。窓もときおり空気の入れ替えのために開け放つだけだ。外を覗いてみたりなどしないから、カーテンはいつでも閉じられている。緩く、風に揺られて波打つ白いカーテン。
弓兵は壁を見やる。もう深夜だ。時計はなくともわかる。
彼のマスターである遠坂凛はおそらく眠りについているだろう。ラインを辿ればわかるが、しなかった。仮にも彼女は淑女だ。夜にそのようなはしたないことはすべきではない。
明日の朝食はなににしようか―――――彼女の顔を思い浮かべながら腕組みをした弓兵はふと窓を見やった。
そこに、いた。


遠坂凛はベッドの中で目を開ける。……喉が渇いた。
不覚、と呻いてごそごそと這い出る。夜中に起きだすなんて優雅ではない。遠坂たるもの、である。でも、だって仕方ないわよね。
生きているんだもの。喉だって渇くわ。
本当は紅茶が飲みたいけれど、パジャマ姿でかのサーヴァントのもとへ行くのもまた、優雅ではない。仕方ない。水でいいか。妥協して、彼女は台所へと向かう。なんとなく足音を潜めて。


弓兵は目を見開く。その頬を夜風が撫でた。
「よお」
青い髪。赤い瞳。白い肌。三つの色彩が星空を背景に胸をこじ開けるようにして飛びこんでくる。槍兵。クラス名、ランサー。
彼はにやりと魔眼のような赤い瞳を細めると、踏みつけた窓枠にしゃがみこむように身を崩した。
窓は大きかったけれど、とてもじゃないが大柄な成人男性ひとりがすっくと立ったままではいられない。もとから身を屈めていた槍兵は、きゅうくつだったのだろうか。小さくなってはいるが満足そうな顔で外へと開く窓に手をかけている。
「なにを……しに」
「おいおい、ご挨拶だな。まずは名前でも呼んでくれるべきじゃねえのか」
なあ弓兵。そういう彼とて、単なるクラス名だとしても名を呼ぶ気はないのだ。なので弓兵は代わりに睨みつけてみた。
「物騒な目つきをしやがる」
「夜中に望まぬ訪問者がやってくれば、そうもなる。しかも窓からとはな」
「玄関から入れば歓迎してくれたとでも? 冗談を言うなよ」
笑う。子供のように。だから弓兵は大人のように睨みつける目に力をこめる。いたずらな子供を叱咤するように。
けれど相手も大人だった。立派な大人。ひょいと鉄棒から下りるように足から部屋の中へと入って、後ろ手に窓を閉めるかと―――――思ったのだが、しなかった。何故か。
窓は開け放たれたままだ。風が吹いて外へ内へとはためくカーテン。
「どうした?」
かけられた声に、自失していたのだと気づく。あ、ああ、と声を上げた。
「いや。何故……窓を閉めないのかと思ってな」
「は?」
そんなことかよ、と言って槍兵は笑った。むっとした顔をする弓兵の顔を見てますます笑う。
「またすぐに出ていくんだからかまわねえだろう」
「なんだ。すぐに帰るのか」
「おう。土産をもらってな」
すぐにでも。
顔が近くに寄って、膝裏に手を回され、抱き寄せられて。
まるで荷物―――――土産もの、だ。
「担いでいくんじゃ色気がねえからな。抱いていってやるよ、あー…………姫様?」
自分でも納得していないように言うので、たわけと叫んでその頭を殴りつけた。


遠坂凛は長い廊下を歩く。台所で水を飲んで喉を潤してから、なんとなく屋敷の中を探索したい気持ちになったのだ。
昔に戻ったようだ、と一人で苦笑する。こんなに慣れ親しんだ場所なのに。
と。
ラインにふと乱れを感じ、顔を上げる。さざなみのように走るそれ、に、軽く疑問を持って集中しようとしてやめた。
いつのまにか弓兵の部屋の近くまで来ていたのだ。彼の部屋は奥まった場所にある。探索をする間に辿りついてしまっていたのだろう。さて、と遠坂凛は腕組みをする。扉の前で一人思う。遠坂たるもの―――――いえ、わたしはマスターだわ。知っておくべきね。
磨かれた扉にそっと寄り添う。遠坂凛は耳を澄ませた。決して薄くない扉の向こう側に意識を集中させる。と、男二人分の声がかすかに聞こえていた。なにを言っているかまでははっきりとはわからないが、気配はわかる。
……喧騒……哀願……打って変わって怒号……瞬間の沈黙。そして、笑む気配。
それらは風の音に流された。数十秒待ってから遠坂凛は扉を開ける。すると窓が開きっぱなしになり、室内はいつにもましてがらん、としていて、白いカーテンが内側へと風ではためいていた。
「せめて閉めていきなさいよ」
だらしない。遠坂凛は呆れたように言って、だがしかし窓には近づかずに踵を返した。
マスターとして、知るべきことは知った。危険はない。だから、いいのだ。
月は丸く、明るかった。まるでわたしはあなたと違ってすべてを知っていますよ、というかのように。


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