はじめに:この小話は永野のりこ先生「土田くんてアレですね!」コミックスに収録されている「さかなちゃん」パロです。台詞が改変されていたりしますが、話の流れはほぼ原作をなぞっています。先天性にょた弓と海の民兄貴の話です。兄貴×にょた弓です。ここまでで苦手な要素がありましたらお戻りください。









記憶。
蘇る、記憶。
“ねぇ”
服を引き裂かれ、逃げたのに、逃げたのに、追いつかれて押し倒されて。
“すごい体してるよね、君”
初めてだった、何も知らない体に私は男の人のそれを捻じ込まれて純潔を奪われた。
そして。
――――今はここで、頭のいかれた男のいいようにされている。
「さあ、飯だぜ」
笑顔の男。
「たくさん食って元気出せよ。丈夫な卵が生まれるように、な」
「……死んでしまえばよかった」
男の。
笑顔が、失せる。
でも気にしない。私はそのために口にしたんだ。知るもんか。知るもんか。
何もかもどうにでもなってしまえ。
「あの時死んでしまえばよかったんだ」
そうだ。
「し……」
「あんなことの後ですごく生理が遅れて、あんなことの後で誰にも言えなくて、私が毎日何を考えていたと思う?」
そうだろう、きっと誰も知らない。私だってもう知らないのだから。
「でも生理が始まった時正気に戻って、死んだりしてたまるかって思った」
生きようって。
思いはしたんだ。
「エミ……」
「触るな!!」
飯とやらの乗ったトレイらしきものをぶちまける。
そのまま、叫んだ。
「もう誰も私に触るな!!」
男の。
混乱している、かお。
「私の……、私の体が汚いから、こんな目に遭うんだ!」
そうだ、きっとそうに、きっとそうに決まってる。
「食べたくない! こんなもの、食べて生きたくなんかない」
男が、口元を覆う。苦しそうに見えたがそんなの見えない。知らない。わからない。
「私が痩せこけて死んで物になって汚らしく死んでいくのを、見物して楽しめばいい」
わからない。
自分の気持ちだってわからないのに。
ふと、男が手を動かす。拘束具を外された。その手は、震えているようで、
「自分から死にたいなんて思う気持ちはオレにはわからねえ。でも」
男は、言った。
「そんな気持ちにさせて悪かったな」
外に出られる。ここから抜け出せる。
私は走った。どこまでもどこまでも。……と。
「これは……」
魚?
人?
脳裏に、幼い頃の思い出が過ぎった。


『爺さん、爺さん!』
笑う自分。
『ほらかじき岩のところで、泳いでる子がいるよ!』
笑う優しい人。
『僕には見えないなぁ』
『私も行けるかな、泳いであそこまで!』
『人間には行けないよ』
――――かじき人が、邪魔をするから。
でも、幼い自分は辿りついた。泳いでかじき岩まで辿りつき、優しい人に手を振った。
だけれど返事はない。広がるのは海ばかりで、幼い自分は声を上げて泣いた。
そこに現れた、赤い瞳の不思議な少年。
『君は、だぁれ?』
ぱしゃん、と水音がする。
『昨日かじき岩で泳いでいた子?』
ぱしゃん、と手が伸ばされて、そこにあったのは。
『やっ! 何……? 手……!?』
水かきのついた、小さな手だった。


オレが生まれるまでに十年。
そしてオレが生まれてからもう二十五年。
オレたちの卵は孵っていない。
おまえに助けてほしくて、おまえがオレを怖がらないように、オレは人間の姿になって……。


『いやだ! 最低だ、触られるのもいやだ! 変質者! 君の狂った幻想に引きずり込まれていいようにされるのなんてぞっとする!』
……死んだ方がマシだ、と。
――――怖かったんだ。
人間の姿をしていたから、君が怖かったんだ。
怖くて恐ろしくて。いちども君の目を見なかった。


「ランサー……?」
水中に見たのは、ゆらゆら揺らめく青い髪と、真っ赤な、
「ランサー!!」


「……おまえから見ると、随分酷い姿に見えるんだろうな」
手術をしたところを切り裂いたと、男は言った。水に染み出していたのは真っ赤な血。その中で泳いでいた男と、青く長い髪。
「もうオレを見るな……こんな姿をおまえに見られたくない……」
告げる声は、弱々しくて。
「おまえの体はちっとも汚くなんかねえじゃねえか」
地上で生きるように生まれ。
生きるための全てをこの星に与えられた祝福された体だと男はこの汚い体を評した。
「おまえの体にいろいろ酷いことしてごめんな」
男は、笑って、
「おまえはおまえの生きる場所に帰れよ。オレはここで夢見て祈っている」
卵が産まれるように。
元気な子供が孵るように。
その声を聞いていたら、もう。
「……エミヤ?」
手の甲にくちづけて、体を同じ水に浸す。
抱きしめれば男は苦痛めいた声を漏らし、懸命に体を離そうとした。
「見るな」
美しかったのに。
「もうオレを見るな!」
この体は、こんなにも尊く美しかったのに。
「ランサー」
体を離して、ほっとした男の雰囲気を感じ取りながら、ゆっくりと水着を脱いでいく。
曝した裸身に男が息を呑むのがわかった。
「君の遺伝子をくれないか……? 私の体の中の卵に……」


そうして、私たちは、体を重ねた。


「ランサーもお腹が空いているんじゃないか?」
「え?」
「いや、私もこんなに減っているということはたぶん……」
新鮮な魚を取り出しながら、
「私、持ってきたんだ」
赤い瞳が、どこか。憧れるように、一瞬見えて。
「食べよう、一緒に!」
手頃な魚に手を伸ばす。口に運べばやはり空腹だったらしく、小さく胃がきゅうと鳴いた。
「いつも新しい食べ物を置いておいてくれる海の中の人とは、本当に皆お年寄りなのか?」
「ああ」
「じゃあ君は子孫を残すための希望の星なんじゃないか! ほら、食べて、もっと!」
互いに、手の内のものを交換するようにして。
「私たちの子供は、やはり瞳は赤色なのかな。ランサーのような。だとしたら、素敵だ」
笑う私を、男はまた憧れるようなまなざしで見て、
「食べてるところ見るのっていいな」
はしたなく頬張ってしまったかと少し焦る。けれど男は笑い。
「おまえが何も食べてくれなくて、“死んでしまいたい”って言った時にはどうしようかと思った」
オレも、と男は。
「オレの命を引き延ばすために何かがオレの食べ物になって死ぬのが、無駄なような気がして悲しかった時があったんだ」
オレたちの種はいつか滅びてしまうのに。
――――おなかがすいたのならおたべなさい。
――――たとえ、このほしにみすてられているとしても、おまえをいまいかすためにしんだいのちのぶん、おまえにとけこんだいのちのぶん、おまえはたいせつなのだから。
――――たとえあしたおわるとしても。
――――きょうあることを、たいせつにおもいなさい。
「年寄りたちはそう言ってたな」
く、と私は唇を噛んで、
「食べるよ」
泣きながらせっかく差し出された“いのち”を跳ね除けていた自分を思い出しながら、口にする。
「食べるよ、今は言われなくとも」
私は、君の卵の母になるのだから。
「ランサーも頑張って食べなければな」
……間があって。
「うん」
男は、そう答えた。
安心して腹を抱えた私に、男の白い手が伸ばされた。
「エミヤ」
「え?」
何でもないかのように、私は振り返る。するとそこには、訴えるような目をした男が。
「オレたちいっぱいセックスしたよな」
「……――――」
私は。
「うん」
しあわせな気持ちで何気なく微笑んだ私を、男は、ランサーは、もう数度目かの憧れるような、安心したような目で見て、
「大丈夫か? ランサー」
沈んでいく。
目は閉じられていて、赤い色が見えない。
「なあ! なあ、ランサー!」
どうしたらいいんだ。誰か。誰か。
ランサーが。
「!!」
つう、と足を伝ったものに、視線を投げて、
「……いやだ……っ……!!」
流れる血に、絶叫していた。


私には何も出来なかった。何も出来なかったけれども、君と一緒にいるよランサー。
ぐったりとした男の頭を抱え込んで、私は涙に暮れる。
一緒にいる。
一緒にいるから、ずっと。
――――エミヤ。
声に、閉じていた目蓋を開ける。
――――卵が生まれる、エミヤ。
……ランサー?
外へ続く道。なみなみと満ちた水。
そこから、生命の歌が聞こえてくる。


“オレは海にいて、この卵を守ってる”
本来の姿となった男が微笑んで告げる。
“この命が孵るように”
それは、とても、やさしくて。
“オレたちの子供たちが元気に生まれてくるように祈ってくれ、エミヤ。地上に帰っても”
“もう会えないのか?”
聞いた私に、彼はやさしい微笑みを向けたまま。
“会える”
オレはいつもいっしょにいる、と。


私が海岸で目を覚ましたのは、それからしばらくもしない頃だった。


翻るカーテン。
風は健やかで、気温はちょうど体を心地良く撫でる。
「行方不明になっていた間のことですか」
医師に、そう告げる。
「“絶滅する種の最後の一人”になる人と一緒にいました」
「“一人”……」
カルテに書き込み、医師は絶えず尋ねてくる。
「それは“人間”ですか、それとも何かいわゆる神秘的な……」
「“もう帰りたくない”と思っていたんです」
私はいったんそこで言葉を切って、
「島に行った夏、その夏が終わるまで楽しく過ごそうと。そうしてその夏が終わったら……」
「“夏が終わったら”?」
……夏が終わったら、どこへ行こうか。
「……――――でも」
生まれたものは。
今生きて、在るものは。
「星に祝福された体だと彼は言っていました」
「“言っていた”のですね、“彼”が」
医師は続ける。
「学校はやめたそうですが」
「はい……でも。とりあえず大検に向けて勉強したり……してみたいことがいろいろあります」
「良いですね、何か希望でも?」
「その種もまたもういちどその生命が星に祝福されるよう」
――――この水はあなたの血。
「生きている間できる限りのことがしたいです」
この風は、あなたの息づかい。


時は流れ、私は娘ではなくなり女になって、そんな私を部下がからかう。
「――――婚期を逃しますよ、ドクター」
私は振り返り、眼鏡の奥から彼を眺めて。
「それはもういいんだ」
「“もう”?」
――――もう会えないのか?
――――会える。
オレたちは、いつもいっしょにいる。
「この水は」
あなたの血。この水はあなたの体をめぐる血、この風はあなたの息づかい、すべてがランサーの生命を孕んでいる。すべてがランサーのと私の子供たちの。
そうだろう?ランサー。
ぱしゃり。
不意に水が跳ねて、振り返る。
「ランサー?」
それは、その子供は、昔見た幼い彼に、とてもよく似ていて。
赤い瞳、海で生きるのに慣れた体、怯えてしまった手の水かき、ああ、ああ、ああ。
何人か知れない海の民の子孫たちが私を呼んだ。


――――おかあさん、と。

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