scene:06 
【anger】

衛宮士郎。
自分と生まれは同じだが、道を決定的に違えた者の名だ。
ここは独白と聞き流してくれてかまわない。私は。―――――オレは、“エミヤシロウ”は間違えてしまったけれど。衛宮士郎は。
“衛宮士郎”は。
歩んでいくだろう。正しい道を。衛宮士郎には道標がある。強く、決して折れない道標が。
どんなに折ろうとしても折れない道標が、だ。
先の衛宮士郎の苦難を想像し、くつりと笑う。これくらい、許されるだろう。何しろ自分には。
何しろ、自分には。
「え?」
縁側でめずらしくふたりきりになった時に話をした。すると衛宮士郎は琥珀色の目を見開き(失ってしまったものだ。懐かしくもないが)何を言われたのか、といった反応を返してきた。だからもう一度、
「       」
口の中に血の味がした。反応が少し遅れて。いつのまにか、影が差し……見上げてみれば、そこには仁王立ちになり拳を握りしめた衛宮士郎の姿があった。
「それは」
粘膜が切れたようだ。ぼんやりと考える。人の身で英霊を殴りつけて傷つけるなど常識外れな。 そんなことを考えないといられないほどに衝撃だったのだろう。あの、戦いを越え。自分をある意味掬い上げて救い上げた存在が、今は真逆の存在として目の前にいる事実が。
「それは、おまえが言っていいことじゃないだろう」
押し殺すような声で衛宮士郎は言った。
「それは、おまえが言っていい台詞じゃないだろう」
磨り潰すような声で、衛宮士郎は。
「それはおまえが口にして許される台詞じゃない!」
それほどまでに。
自分は、許されぬことを。
普段は自分より背の低いかつての自分をぼんやりと見上げる。憤怒に満ちたその顔を。
ぼんやりと、見た。
自分と自分との温度差が、あまりにも高い壁としてそこにそびえ立っていた。ただ、わかったのはひとつ。
また、違えた。
そのことに、安堵した。

その場を立ち去った後、部屋に戻った衛宮士郎は力任せに机を叩いた。そうして頭を抱え、伏して、ひとこと。
彼の剣や道標、安らぎが知れば目を見張るような自らへの罵倒の言葉を吐いた。


【break】

「お兄さん」
街角で声をかけられた。振り返るとそこには金髪の小柄な少年。赤い瞳でこちらを見て、にこにことひとなつこく笑っている。
「何かな」
少年には見覚えがあった。交流も少々あった。なので、警戒心なくたずねる。すると少年は笑顔を浮かべたまま、
「壊れちゃってますよ、お兄さん」
す、と。
細く折れそうな指で、こちらを指さしてきた。
「―――――?」
不思議に思う。好みではないので、装飾品の類いは付けていない。赤い少女や青い男は、少し着飾れと言うけれど。
こわれている。それは子供のつたなくおおげさな表現で、実際はボタンでも取れている程度なのかと胸元に触れてみた。その時だ。
「ですから、壊れちゃってるんですよ。“お兄さん”が」
笑顔のままで。
少年は、そう告げた。
「……え?」
その瞬間、すべてが引いていった。
波打ち際など生温い。寄せては返す。……戻るなど、そんなことは望めないのだと、今更になって気づいた。
それは大波。
さらわれていくばかり。
ああ。
そうだったのか。

突然淡い光の粒となって消えた男に、雑踏は混乱を極めていた。その中で金髪の少年だけがひとり、笑っている。
「大丈夫ですよ、お兄さん」
大きく猫のような瞳を細めて、愛しげに。
「ボクの蔵に存在しないものなんてないんですから。あなたも他の財と、なんら代わりはありません。……ええ、はい。すぐに、出してあげますから」
あなたが“治った”ら。
そう言って、唇を吊り上げ、声を立てて、笑った。
「だからそれまで、おとなしく眠っていてくださいね?」
やさしく治してあげますから。
だから。
絶望して、眠っていてください。


【crash】

信じられないと思った。だが真実であることに変わりはない。
青い髪の男からは煙草の匂いがする。それが。今は、どうしようもなく。
「信じたのはおまえだ。なあ?」
勝手に、とつぶやく。確かにそうだったので、言い返すことはなかった。男はまた煙草に火を点ける。ほのかに赤い光がともった。
紫煙を吐きだし、何かを振り払うように後ろでくくった長い髪を揺らして男は続けて、
「オレはただ言ってみせただけだ。それをおまえが信じただけ。それだけのことだ」
何かを振り払うように。それは、おそらくは、
「それだけのことだ」
けれど、あの体温や抱擁までもが勝手な思いこみだったのだろうか。
……そうだったのだろう。
きしりと音がした。
きしきしとどこか片隅で音が鳴っている。ぎしぎしと。不謹慎にも、軋んでいたのは寝台で。
今はくくられた長い髪が解かれていて、熱に眩む意識の中でそれを懸命に掴んだ。そんな時もあった。
それさえも男からすれば思いこみ。そう言うのだろう。
きしきし。
また、音が鳴った。
「口では何とでも言える。おまえも……」
それを遮って、笑ってみせた。
「知っているとも」
もう、それに対する反応は見たくなかったし言葉も聞きたくなかったので、手に魔力を込めて、
「だが、君の口から聞きたくはなかったよ……!」
結局上手く笑えずに泣き笑いになってしまって、みっともないことになった。
核に深々と突き刺さった剣は己殺しの剣。
煙草の匂い。抱擁してくれた体温。何度もかけられた言葉。それらすべては、かつての懐かしい記憶に似た。
ぱりん、と背負ったガラスが、心が、砕ける音が同時にして、全身を浮遊感が襲う。粉々になったガラスの破片と共に落ちていきながら、とうとう泣き笑いすらも出来なくなって駄々をこねる子供のように涙を流し、
「嘘吐き……!」
誰にともなく、そう、叫んでいた。

外は。
底は暗く、消えていった男は見えない。確かに自分は言った。言ってみせただけ。けれど。
「口では何とでも言えるって、言ったばっかりだろうが」
指先で火の点いたままの煙草を握り潰す。焦げる音と臭いがした。思いだす。今、見たばかりの。落ちていく寸前のあの表情。
こんな時ばっかりオレを頼るんじゃねえよ、と。
縋ってくれば、そう言ってやるつもりだった。それがこの始末だ。
「……縋ってみせろよ」
あの時のように。
毒づいてみるが相手はもういない。残ったのは、割れた窓ガラスと指先の火傷の痕だけ。


【damn】

「そっかそっか、かわいそうになァ」
屋上、満月。風は冷たい。
少年は同情するぜといった口調で男に語りかけるが、男からの反応はない。だが少年はそれをあらかじめ予測していたかのように眉尻を下げることも目を吊り上げることもなかった。
「みんなに虐められちまったのか。そりゃまあ、自暴自棄? にもなるよな」
ざらざらとコンクリートの破片が飛んでいく。月は明るい。
「でも、アンタ」
にい、とそこで初めて。
少年の、口元が歪んだ。
「そりゃあ、仕方ねえよ」
そこで少年は大きく両手を振りかぶり―――――
無抵抗な男の腹に、いつのまにか手にしていた歪な形の凶器を突き刺した。どす、と冗談のような音がして、それでも男は動かない。
「だってこんなよ、」
ぐりぐりと捻り入れ、
「こんなザマじゃ、アンタ、」
ぬるぬると抜き差しし、
「“そうしてください”って看板ぶら下げて歩いてるようなもんだ」
一気に血しぶきが飛ぶのもかまわず引き抜いて、べったりと赤く染まったそれを舌を出してことさら見せつけるように舐めてみせた。
しかしそれでも無抵抗な男に、少年は肩を落とす。
「なんだよ、空気入れて遊ぶ人形の方がまだいい反応するぜ、なあ」
がっかりですよと神経を逆撫でするような口調で言うと、少年はいやしかしそれも古いかなとケケケと笑う。
「…………」
反応は返らない。
少年は無言で跨った男を見下ろすと、
「ホントにお人形さんになっちまったの?」
子供の声音で、そう問うた。
さらさらと風が吹く。濁点があるとないとではこうも違うのか。澄んでいるのと、濁っているのとでは、こうも。
さらさらとざらざらと。風が吹く。その風に乗ってコンクリートの破片が飛ぶ。
月は、異常なほどに、明るい。
「そっか」
少年はつぶやいた。めずらしく、どこか、あきらめたような口調だった。
それを最後に少年は男の上から体をどける。彼、曰く“お人形”のように四肢を投げだしうつろな眼で空を見る男に向かい少年は、

「だけどさ。オレもだけど、アイツら、アンタのことただ憎いだけで虐めてたんじゃなかったんだぜ?」
風が吹き、黒い髪と赤い布切れが揺れた。少年は目をすがめ吐き捨てるようにつぶやく。
「その証拠に……って、もう聞こえてねえのか。遅かったんだな」
ごめんな、とつぶやいて、少年は姿を消した。
謝罪を向けられた男は。
何も聞かず、見ず、ただ自分の内へと閉じこもるだけだった。

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