scene:08 
「アーチャー」
名前を呼ばれて、振り返った。するとごく自然に、
「…………」
ゆっくりと離れていく端正な白い顔。満面の笑みを浮かべて大層ご機嫌の様子だ。ん、今日もかわいいななどと戯言を言えるくらいには。頭を撫でられそうになったときはさすがに跳ね除けて阻止したけれど。
キスと、甘言と。それとの境目はなんだろう。
「いいだろ、頭くらい撫でさせろよ。減るもんじゃあるまいし」
それとも減るのか?と問いかけてくる。きれいに無視したら、勝手に予想して回りこんでくる。まったく最速の英霊は素早いことで!
「それとも。……誓いでも立ててるのか? たったひとり以外には撫でさせねえって。ゲッシュをよ」
そんなわけが。
あるかたわけ。
それが一番シンプルな答えだったが、次いで問いが来るのはわかっていたので大仰にうなずいてみせる。ああそうだよクー・フーリン。この身はゲッシュに縛られている。この頭を撫でていいのは生涯たったひとりきり。
「まじでか」
うなずく。
「ゲッシュか……なら、仕方ねえな、ってオイ」
首根っこを掴まれた。さすがに騙されないか。というかノリツッコミとは、どこで覚えてきたのだろう。
……初代マスターか。それとも二代目。まさかあのシスターではあるまいな。
離してくれないだろうかと言ってみるが、嘘をついたので一回休み、だそうだ。すごろくの類いでもあるまいし。大体君と違って、私はそう暇ではないのだと告げる。
「ダメー」
…………。
子供にすぎる。
「そんじゃあ、」
背後から抱きしめられて、また唇を奪われた。今度はゆるやかに、ついばむように。ゆっくりと時間をかけて食まれる。軽く吸われるとくすぐったいし万が一にでも跡が残りそうで不安なのだが。
それにさんざん好き放題された後の痺れたような感覚がどうも慣れない。自分の唇でないようで。
「そりゃあおまえのじゃねえしなあ」
舌先を吸って、音を立てて離してからふたたび抱きこんできて子供でもあやすかのようにゆらゆらと。馬鹿な。子供はそっちだ英雄殿。独占欲のつもりか?私は私であって断じて他人のものではない。
「いいや、オレのだよ」
ならばとおさ……凛のものになることを選ぶ。
そう言えば眉を寄せてわざとらしく真顔を作り、おまえそりゃずるいだろ、と言われた。
「おまえはオレにあの陰険シスターのものになれってのか」
そりゃねえだろ。
はあ、と大げさにため息。どうでもいいが首筋に顔を埋めてそれをやるのはやめてほしい。あと耳元もである。なんというか……その、気持ちが悪い。
「感じてるっていうんだよ」
体を触ってきながら。許した覚えはないが。
後ろ髪を引きながら言えば、
「何事も体験、ってな」
冗談を。
「いててててて」
情けなく騒ぐ。何のつもりだと言うのでこちらの言葉だと返した。リードがついていないのなら近いものを使うまでだとも。
「人の髪をリード代わりにするんじゃねえっつの」
殺すぞ、と言うので。
殺してみろ、と言った。すると目をまばたかせてにんまりと笑い、
「―――――ならお言葉通りに。ベッドの上でな?」
上手いことを言ったつもりだろうか。
古代の神秘が無駄に現代に染まっている……しかも中途半端な時代で。それはお決まりな上に古いと思うのだけれども。恥ずかしくて、素面ではとてもじゃないが言えたものではない。
「言わなくていいんだよ、おまえは」
オレが言ってやるから、と頬にまぶたにくちづけられる。雨あられだ。外は快晴だというのに。
「恥ずかしいことも、格好悪いことも、どこでだって何回だって言ってやらあ」
それは勘弁願いたい。
「なんで?」
この男は時折口調や態度がやたらと子供じみる。擬態だろうか。認めたくはないが、小さきものやか弱きものに甘い自分に対する。と、言えば男は言うだろう。
「ありのままで勝負する。それがオレだ」
……案の定。
瞳をきらきらとさせている男にたずねる。
恥ずかしくないのかと。
「恥ずかしくねえよ」
みっともないだろうと。
「みっともなくねえ」
愚かでしかないだろう、と。
「愚かなもんかよ…………」
最後の言葉は、耳の中に直接吹きこまれるように吐息混じりにささやかれた。低い。甘い声。こんな声をどうしてこんなところで。
「ああ、けど、だけど」
ささやきを止めずに男は続ける。
「昔から言うよな。“恋をした人間は皆愚かになるもんだ”……って」

だからしょうがねえだろう、と男は〆た。
首をひねってその顔を見る。
不思議そうに男はわずかに首をかしげ、すぐにぱっと明るく笑った。
「感動して声も出ねえか?」
「……呆れて声も出ないのだよ」
「出てるじゃねえか。この、」
嘘つき野郎。
愛しげに言って唇を塞いできた、その感触と温かさにもういいか、と思ってしまった。
それも今日だけだがと自分の中で線を引きつつ。

「それじゃあ……」
満面の笑みと共に頭を撫でようとして伸ばされた手を打ち払う。男は笑顔のまま固まって、
「あきらめろよ、いい加減よお」

それとこれとは別なのだ。

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