scene:18
爽やかな朝だ。
サーヴァントに睡眠は必要ない。かといってそれを有利さとして持ちこむのはさすがにあれが相手でも哀れだろうと、夜空が白み始めるまで行動は控えた。人が起きられるぎりぎりの時間に作戦を開始する。
―――――糠床をかき混ぜ、昨日用意しておいた朝食の献立を冷蔵庫の中味とあらためて照らし合わせる。照合完了。不都合は何もなし。卵焼きを塩味と砂糖味、出汁巻きと三種類こしらえる傍らで鮭を焼き、よく漬かったきゅうりと茄子を切り、ほうれん草の胡麻和えを。
胡麻はすり鉢で擂る。最初からそうなっているものなど論外である。
その他にも様々に用意し、炊飯器が白米の炊けたことを知らせるメロディを奏でたとき、ちょうど味噌汁も出来上がった頃だった。
小皿に取ったひとくち分を、唇を尖らせ噴き冷まして味を確かめるとうなずいた。
ああ、今日も、何も問題はない。
用意した朝食を盆に乗せアーチャーは居間へと歩を進める。何往復かするだろうがすぐに済むだろう。
アーチャー曰くの“あれ”がいつものように文句をつけてきたとしても軽くいなせばいい話。この屋敷での朝食時の台所・調理権確保は、戦場での地の確保と同じである。実力のある者が勝ち、敗者が出来るのは喚くことくらいだ。
それにしても、今日は随分と遅い。
“あれ”はどれだけ寝坊をしてもアーチャーが味噌汁の鍋に具材を投入する前には間に合っているのに。
何事かあったのか。あったとしても、アーチャーには何も問題はないのだが。
ふ、と刹那目を閉じて口端で笑い、居間に足を踏み入れた瞬間目を開けたアーチャーは、
「遅い。一体どれだけ待たせるつもりだ、アーチャー」
「……は?」
自らの先程の発言を速攻で撤回した。
何事かあったのか、あったとしても、アーチャーには何も問題は
あった。
物凄くあった。
もう数えきれないほど、原稿用紙を地獄の石抱き拷問くらいの枚数渡されても足りないくらいにあった。だというのに頭の中は真っ白だ。疑問は無数に渦巻いているのに脳内真っ白。
矛盾している。
居間にはアーチャー曰く“あれ”衛宮士郎がいた。毎朝アーチャーと朝食戦争を繰り広げる仲である、衛宮士郎。
それが日本家屋にはとことん似合わない、例えるなら某慢心王のお屋敷かアインツベルンのお屋敷に置くのが似合うんじゃないかという豪奢すぎる椅子に深々と腰かけて足を組み、肘置きに肘をついてエプロン姿で配膳中のアーチャーを見ている。
「私が聞いているのだ。返事をしないか」
「…………、」
「やれやれ、所詮は下僕として使われるしか脳のない男だな。仕置きは後だ。今は腹を満たすのが先―――――」
琥珀色の目が細まる。
飛んできたちゃぶ台の破片を指先で挟み投げ捨て、一拍の間を置き投影した剣で頭蓋を割らんと振り下ろされた夫婦剣を受け止めると、衛宮士郎はつぶやく。
「この私に反逆行為とは。……力の差というものくらいは知っていたと思っていたのだが……」
「黙れ! ……衛宮士郎、何者かに操られているのか、それとも修行のし過ぎで脳のどこかがいかれたかは知れんが、そんなことは最早どうでもいい! 殺す! 跡形もなく消し去ってやる!」
「……ほう」
琥珀色の目がさらに細まったかと思うと、
「っ、!?」
ふと空間が捻じれた、ようにアーチャーには感じられた。力任せにではなく、相手の力を利用する形で衛宮士郎は、上から押さえつけてくるアーチャーの剣を捌いたのだ。舌打ちをし、アーチャーが横に逸れた軌道をすかさず戻そうとするが遅い。
振り上げられた衛宮士郎の剣に、同じ二対の剣は敗れて粉々に砕け、硝子の破片のように輝きながら消えていった。
「―――――な―――――」
呆然とする鋼の双眸の前で幼い風貌が笑み、褐色の手首が掴まれる。
骨が軋む音と苦鳴が混じり、衛宮士郎はアーチャーを引き寄せつつささやきかける。
「この程度の力で私を殺すとは、面白い冗談だ。……ああ、そうか」
引き寄せながら自らも身を乗り出し、アーチャーの耳元に唇を寄せ、衛宮士郎は、
「わかってやれなくて済まなかったな、アーチャー? こうやって逆らってみたのは私の気を惹くためだったのか。夜伽を命じる回数もそういえば少なくなっていたからな。だが日本の少子化を止めるためにはおまえに裂ける時間が少なくなるのは仕方のないこと。それは理解しているとあの夜、私の足に縋りついて頭を垂れ、涙に濡れた声でけれど時々はこの哀れなしもべにお情けをくださいませ衛宮様、と言ったでは……」
「…………」
全てがすっ飛んだ。
大半の怒りも少しの憐憫も何もかも全て、空白に押し流された。
「―――――……だろう。……アーチャー? 聞いているのか、アーチャー」
「…………」
「まったく」
視界が比喩でなく反転した。
気づけば畳を背の下に敷いていて、衛宮士郎がのしかかっている、という事態にアーチャーはまばたきを繰り返す。
足払い、突き倒された、その他超常的な現象なんでもどんと来いだ。それ以前にもう既にどうしようもない世界に巻きこまれている!
口端を吊り上げて衛宮士郎は笑うと、
「気が変わった。食事の前に仕置きだ。……もっとも、おまえにとっては仕置きではなく、褒美だがな……」
「衛宮士郎! 待て衛宮士郎! おかしい、これ絶対におかしい、おかしいだろう絶対に! 着々と服を脱がすな、そもそもこの服は人の手で簡単に脱がせ、って人の話を聞け、衛宮士郎、貴様、きさっ、き、いつの間に天の鎖など投影したか―――――!?」
「少し煩いぞアーチャー。今日はそういう気分なのか? ならば素直に口にするがいい。“どうか手酷くしてくださいませ、衛宮様”と……」
両腕を天の鎖で拘束され、着々と概念武装を剥ぎ取られていきながら混乱の渦の中で揉まれに揉まれるアーチャーの視界の端にふと、見慣れた青い色彩が横ぎった。
神の使いだとばかりにアーチャーは声を張り上げる。
「ランサー! 衛宮士郎が乱心した、今日のこいつは普段のヘタレではない、どんな手段を使ってもいいから速やかに仕留めろ!」
どうにか元のキャラを繕って見慣れた青、ランサーへ呼びかける。だが同時に違和感がちりりとアーチャーの脳内を過ぎった。
……何故、ランサーは概念武装姿なのだ?
日頃はアーチャーと違い、人の世の普段着を好むランサーが、何故、今日に限って?
ランサーは無言のままにざ、とその場に跪くと、
「お止めください衛宮様!」
―――――。
衛宮士郎はその声に振り返ると「ランサーか」とつぶやく。口元に笑みを浮かべたまま。
「私に意見をするか、ランサー」
「無礼は承知の上! しかし……しかし、もう見ていられません! アーチャー、」
「は、?」
「おまえの心が衛宮様に向いているのは承知だ、だがしかしオレは、オレはおまえを愛することをあきらめられなかった……っ! 衛宮様、ですからこのような無体はお止めください!」
「ほう。まさか飼い狗が牙をむくとは思ってもいなかったぞランサー。主のものに手を出すならば、……わかっているだろうな?」
「承知しております。敵わぬことも、けれど、それでもオレは愛のためにこの身を、この命を散らす覚悟で衛宮様、男として戦士として貴方様に挑む所存―――――!」
「よくぞ言ったランサー。その心意気に免じてひとつ戯れてやろう。だが貴様は反逆の身、手加減などかけらもないと思え―――――!」
えっと。
おかしいです。何がって言われても全部がとしか言いようのないくらい!
全身からバリバリとかドバババとかそんな感じの擬音が似合いそうな闘気を発して睨みあっている衛宮士郎とランサーを見て概念武装を大方剥がれたアーチャーは呆然とふたりを見つめる。
そして首を左右に振る。
おかしい。絶対におかしい。異次元に放りこまれたのかオレは、それとも異次元からこいつらが放りこまれてきたのか?どっちにしてもろくなもんじゃない、あ、抑止力働いちゃう、抑止力働いちゃう、駄目、こんなことで抑止力働いちゃ駄目、抑えて……駄目、駄目なのぉっ!
などと壊れかけの思考回路を巡らせていると、庭の方で新たな気配がした。
駄目だ、本当に駄目だ、これ以上おかしなものが現われたら本当に私の中の抑止力が、
「ハハハハハ! 衛宮とその手下が仲間割れかい? まあそんなことはどうでもいいんだけどね、おれは今日も美しい、だっておれは間桐慎二だからさ! おれの罪……それはこんなに美しく生まれ落ちてしまったこと! そしてこの世中の女性たちがおれを巡って争っていること! そしてその結果モテない男たちがハンカチを噛み締めることになったという哀れな……ああ! なんて罪深いんだ、そして美しいんだ間桐慎二!」
―――――うん。
これについては、何も、おかしくはありませんでした。
塀の上に乗ってずっとひとりで毛髪がワカメな人が語る中、朝の空を小鳥さんたちがさえずりながら横ぎっていきました。
あと配膳する予定だった朝食はちゃんとバトルが始まる前に居間の隅に避難させたのでその辺は大丈夫でした。
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