scene:25/02
理想を追って怒声を、嘆きを、寂しげな笑みを振りきって世界へと飛びだした。求めて。どこかにあるのだと、広い世界にならばあるのだと。求めるものが、自分が、自分を求めるものが必ずあるはずだとただひたすらにがむしゃらに駆けたのが数年。
結論からしてそれはあった。置いてきた代わりに得て戦場で、以前、夢に見た。
彼女の行き着く果てに比べれば生温い天国のような地獄の中心。
そこで震える指先に縋られて、大声でありがとう、と。
言われたときはざっくり切った額も流れ落ちてくる熱い何かも、意識の片隅でさえ支配出来なかった。
こちらこそ。
笑って答えた記憶は今では遥かに遠い。
誰かを助けることに素直に笑って、心を震わせた記憶は、今ではもう。
それから何年か経って、背が伸びて肌が浅黒くなってきた。体内で軋むのは何だっただろう。遅い成長痛か、などとありもしないことを思いそんな暇があるのならと立ち上がって武器を手に取った。
痛みに鈍化していって、麻痺していって、背が伸びて、目覚めると何かしら忘れていた。
衛宮士郎は衛宮士郎ではなくなり、エミヤ、と、そう。エミヤシロウという、ひとつの現象のように呼ばわれて。
確実に遠ざかり、近づいていった。
人外の力に指が届きそうになるたび、正義の味方を目指していた少年は何かを失っていった。それはシンプルに人らしい心だったり身体機能だったり、体の一部だったりだ。
今回も、それだった。
立てない。腰から下の感覚が希薄だ。
実際にもう、体内で軋むなにかに突き破られてそこには何もないのか。もしくはただ一時的に感じることが出来ないだけなのか。彼にはわからなかった。
わかろうと考えることもしなかった。
殺せない。
これでは誰かを救えないと、ふとそんなことを淡白に思い浮かべ近ごろ灰色に濁り始めた目を細めるだけだった。
「シロウ」
声がして、見上げるとそこに少女が立っていた。白い肌に白い髪、赤い瞳の少女。知らない顔だ。この戦地には白人種はいないはずだったが。
少女は、変わってしまったね、とつぶやく。
「君は変わらないな」
「そうよ。わたし、もう変わらないの。誰にも変えられないわ。シロウ、あなたにもよ」
赤い瞳は燃えるようでひどく冷たい。
「シロウ。さようならは言わないわ。だってあなたとわたし、また出会うもの。だけどきっとお互いにお互いを覚えていない。わたしはあなたを忘れるし、あなたはもうシロウじゃない」
少女は言って薄っすらと笑った。
「シロウ、楽しかった。わたしを“イリヤ”って呼んでくれてありがとう。でも、もう呼んでもらえないし、呼ばれたくもない」
少女は最期に、とひとこと、
「あなたは変わった。わたしは変わらない。そうやってお互い短い人生を生きていきましょう」
やがて髪さえ少女と同じように白くなった日、硝煙の臭いが立ちこめる部屋で外に耳をすませた。爆撃の音。銃声。悲鳴。怒号、哀願、断末魔の絶叫。いつも通りにみんな、一思いにやってしまおう。そう思って窓を開けた。
すると空は青く青く澄んでいて、目を見開く。
格好の的にすぐさま弾が飛んできて肩で血の華が咲いた。血の色の花弁が肩で散る。
「ねえさん」
もうあの日には戻れないのだと心底から理解した。生涯最後の涙がひとすじ、見開いた灰色の目から流れて腐った床に、落ちた。
衛宮士郎は完全に死んだ。
そうして、エミヤが産まれた。赤銅色の髪は白く染まりきり、琥珀の瞳は鋼に曇って、肌はとっくに浅黒く。
衛宮士郎は死んだ。
黒髪の女性が新聞を眺めている。遠い異国で謎の爆発。数えきれないほどの人間が死んだ。
死んだ、傍らで数人が生き残りひとりの男を見たという。
おそらくは惨事と救いを同時にもたらしただろう男はわずかな生き残りたちを見て、一瞬だけ誰かを探すかのような顔をしてからすぐにどこかへ消えてしまったらしい。
その男の名前も生まれも、誰も知らない。声すら聞かなかった。
助かった。生き残りたちが理解したのは男が立ち去ってから、それも相当経ってからのことだそうだったから仕方ない。
“あれは一体何だったの?わからない”
“神だったのか?死神だったのか?……いや、どちらでも同じことか”
生き残りの中の黄と黒の混じった肌色をした幼い少女が、
“とてもかなしそうな、だけどうれしそうな顔をしてたよ。ふしぎなひとだね”
死の淵から掬い上げられ疲れきった腕に抱かれて無邪気に母の顔を見上げ、言ったそうだ。
黒髪の女性は唇を噛む。新聞を畳まず机の上へ置いた。蝋で封をされていたらしい封筒が覆い隠される。
―――――とある少女の訃報。
ついぞ成長することなく、幼い姿のままで先日眠るように逝った白い髪の少女は、見た目だけなら命を救われた少女と同じ年頃だった。青く青く、どこまでも呆れるほど空が澄んでいた日のことだった。
そんな空の下で明るい笑い声を上げて遊んでいたかつての少年と少女を思いだし、黒髪の女性はいっそう強く唇を噛んだ。
鮮烈な赤いルージュに彩られた唇は裂け、ぽつり、と握りこぶしに、生きている証。
……ルージュよりも赤い血が、滴った。
―――――衛宮士郎が、エミヤと呼ばれるようになってからの話。
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