scene:25/03 
胎動する。
順調に育っているのね、と場に足を踏み入れた少女は小さくつぶやいた。
「無理矢理に孕まされたのに健気ったらないわ。若い身で可哀相だから堕胎を手伝ってあげたかったけど、どうやらもう手遅れみたい」
幼い顔つきとは正反対の言葉をさらさらと吐いて靴底でざりざりと地を擦った。まるで歩きくたびれた、と。
減った靴底を擦りつけることで地面に抗議するようにざりざりと何度も。
「―――――マタニティ・ブルーなんて言い訳しないでね。わたしがわざわざ出向いてあげたんだからちゃんとこっちを見てちょうだい、サクラ」
胎動。
地響きがしてどこからか唸りが上がる。場には、目か臓器のごとく繰り返すなにかの前で立ち尽くすもうひとりの少女がいた。
ぼんやり宙を仰ぐ少女は呼びかけた方よりだいぶ年上だ。見た目だけならおそらく十は離れている。
だというのに逆転してひどく幼く見える少女……サクラ、と呼ばれた……は、しばらく宙を眺め、普通の相手なら焦れ始めただろうところでようやっと反応を返した。
「……あれ。イリヤ、さん」
「イリヤさん、じゃないわよ。寝ぼけていないで。お腹がいっぱいだからってぼうっとしてもらっちゃ困るの」
「すみません。だけど、わたし、たくさん食べたから」
言って少女は腹を撫でる。平たい腹を、白い手で。
「だけど、まだくうくうお腹が鳴るんです……」
夢見るささやき声にイリヤと呼ばれた少女はため息をつく。ルビーのような瞳を閉じ、開けた。
声を張る。
「意地汚いのねマトウサクラ。……ああ、違ったわね。あなたもう“そこ”には戻れないもの」
また、地響きがした。
「マキリ、サクラ」


白い聖杯、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
黒い聖杯、間桐桜。
大空洞で彼女たちはふたりきりだった。他には誰もいない。いるのは杯である彼女たちだけだ。
イリヤスフィールは腰に手を当てて桜を見やる。
「一応確認のために聞いておくわね。シロウとリンはどうしたの」
「食べちゃいました」
「そう」
さらりと、応答は終えられた。どんな形にでせよ間桐桜を救うためここを訪れた衛宮士郎、遠坂凛の姿はなかった。食べちゃいました、その言葉の通りに桜の影に呑まれたのだ。今頃いったいどうなっているのか。
生憎とイリヤスフィールは影の中になんて入ってみたことがないからわからないが、きっと最悪に違いない。
生きたまま嬲られるか喰いつくされて死ぬか、どっちに転んだって最悪でしかない。
「それで? それだけじゃないでしょう。他にどれだけ食べたか言ってみなさい」
「ええ……と、そうですねえ……まずライダーと、神父さん……それにセイバーさんも我慢できなくて溶かしちゃったのかな。……うん、そうみたいですね、だって呼んでも答えがありませんから」
「それだけ? 他にはない?」
「……よくわからないです」
「まったく」
仕方ない子、とイリヤスフィールはため息をついた。二度目の。
桜が呑んだ者の名を列挙しているあいだに既に一度目は吐きだしていたのだ。
「暴飲暴食は母体に良くないっていうのに、呆れちゃうわ」
「はあ。……それで、イリヤさん?」
「なに」
「その。なんで、来たんですか?」
光のない赤黒い瞳がイリヤスフィールを見やる。イリヤスフィールはこの世にあるあらゆる負の要素を大鍋に投げこんで煮詰めたような視線に、物怖じひとつせず返した。
「わかってるんでしょうサクラ。頭の悪い質問はしないで」
「…………」
童女じみた桜が一時的に鬼女の様相を見せる。だがすぐに拭い去って、
「さすがイリヤさんですね。なんでもわかってるんだ。きっと姉さんも先輩も―――――わかってないのは、わたしひとりだけ」
「なんでもは知らないわ。知ってることしかわたしは知らない。みんな、そうよ」
「どうかな。……まあいいです。今のわたしは、知ってるんですから」
桜は初めて感情めいたものをその声に乗せた。喜び。
そして顔にも微笑みを浮かべ、胸に手を当てる。
「姉さんと先輩を食べてわかったんです。サーヴァントの中で唯一イリヤさんが持っていったひと。あのひと、先輩ですよね?」
「……どこから知ったの」
「先輩の左腕からです。前からちょっと色が違うかなあ、変だなあって思ってたんですけど、あれ、あのひとの腕だったんですね」
あははと声を立てて笑って、わたしどんくさいなあと桜は目を細める。
「それで。いろいろとあって、気づいちゃいました」
「ずいぶん念入りに食べたんでしょうね、その様子だと」
「それはもう、骨まで残さず美味しく」
「あなた、シロウのこと大好きだものね」
「はい、大好きです」
「食べちゃいたいくらい?」
「はい」
「もう食べちゃったくせに」
あっさり切り捨てたイリヤスフィールに桜はいいえ、と首を振る。
「まだです。まだ、イリヤさんの中にいる先輩を食べてないですから」
これもまたあっさりと桜は言い放った。イリヤスフィールの胸元を指さし、その内にある“魂”に狙いを定める。
「……だから、わからないんです。なんで来たんですかイリヤさん? イリヤさんならわかってたでしょう? いつかわたしが先輩とあのひととのことに気づいて、イリヤさんのところに行くって。なのにどうしてわざわざ自分から?」
「この子のためよ」
桜は目を丸くした。大人びて告げたイリヤスフィールを見てぱちぱち、とまばたきをする。そんな桜を臆することなく真正面から見据え、イリヤスフィールは言葉を紡ぐ。
「サクラ。アンリマユを孕んだあなたが這いずりでてくればこの世に災いが訪れる。人間がたくさん死んで、物は壊れて等しく終わりが来るわ。だけれど、その前に“終わらせる”者が来る。世界に繋がれたもうひとりのこの子、抑止力がね。わたしはそんなのいや。この子が殺し尽くして全部終わった後で悲しむ姿なんて想像するだけでいやなの。わたしは、わたしの弟を、シロウを悲しませるなんて絶対出来ないし、したくもないのよ」
「―――――」
「わたしはシロウを愛してる。だからここに来たの、サクラ。もうひとりのシロウがやってくる前にカタをつけようって」
「…………わたしに、勝てると思ってるんですか?」
「やってみないとわからないでしょう」
つんとイリヤスフィールは顎を上げる。
「それに、愛の力って偉大なのよ、知ってた?」
だから勝てるとでも言いたげに。
自分は弟を愛しているから、負けるわけがないとでも言うかのように、いや、確かにその態度で示してイリヤスフィールは胸を張った。桜は不満げにそんなイリヤスフィールを見る。
「イリヤさんずるいです。わたしだって、先輩のこと、大好きなのに。誰にも渡したくないくらいに愛してるのに」
「あら、ずるいも何もないわ。こういうのって言ったもの勝ちでしょ。悔しいなら自分だって言えばいいじゃない」
「好きです。わたしだって先輩が好き! だから負けません、絶対にイリヤさんには負けないんですから!」
いくらわたしの義姉さんになるかもしれなかった人でも!と叫んだ桜にイリヤスフィールはわずかに眉を上げる。
「物騒な妹だこと。いいわ、ならそろそろ始めましょうサクラ。わたしはひとりだけどひとりじゃない。アーチャーが……シロウがいてくれる。なら絶対負けないわ。お姉ちゃんとして、弟を守らなきゃならないもの」
瞳がきらめいた。
肩を喘がせていた桜はそれを見てぽかんとした顔になり、それから微笑む。
「わたしだって負けません。……どんな姿になってたとしても、先輩を食べ残すなんてお行儀悪いですからね」
つい、と手が上がる。桜の周囲を取り巻く靄が呼びかけに応じるかのように集まり始めた。一方イリヤスフィールも不敵に笑い、魔力を練り始める。
地にひびが入り揺れが激しくなり―――――そこで、桜がつぶやいた。
「イリヤさん」
「なあに? 待ったはもうなしよ? 泣き言も聞かないんだから」
「いえ。……お願いがあるんですけど、やっぱり、殺しあう前にちょっとだけ、イリヤさんと中の先輩、齧るくらいさせてくれないかなって……」
おなかがくうくう鳴るんです。
緊張感のない“お願い”にイリヤスフィールは瞠目した。ぱちぱちぱち、ときっかり三度まばたいて、何度目か知れないため息。
「駄目。あなたが喰いついたら最後、跡形もなく食べられちゃうでしょう。齧るだけなんて信じるわけないじゃない」
「ちえ。やっぱり駄目かあ……」
残念そうにぼんやりつぶやく桜をイリヤスフィールが睨む。
「真面目にやる。……行くわよ」
宣言と共に小さな体中に刻まれた刻印が輝く。
指をくわえていた桜はその輝きに顔を上げると、笑った。イリヤスフィールもまた。


地響きと唸り。半透明の中でぎょろつくなにか。
白い光と黒い闇が辺り一面を染めていく―――――。
恋慕と家族愛の違いこそあれ、“エミヤシロウ”を心底から愛する少女たちの戦いが今、始まった。

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