背中にとん、と軽い感触。振り向くと小さな姉が笑っていた。
「どうした?」
「いい匂いがするから誘われてきたの」
と、まるで蝶のようなことを言う。軽やかな振る舞いはまさにそれだ。きっと小さく可憐な蝶なのだろう。
小さな姉はボウルを覗きこんで何を作っているの?と問う。
「チョコレートケーキをね。我がマスターが是非にというものだから」
「リンったら、せっかくのバレンタインになのに自分で作らないでどういうつもりかしら?」
まあ、リンの手作りよりはアーチャーの手作りの方がいいけれど。だなんて。
あかいあくまがいたら即喧嘩の開始だ。
「ねえ、“シロウ”?」
声色が変わる。蟲惑的な赤い瞳。目をまばたかせれば、リボンのかけられた小さな箱を差しだしてくる。
ブラウンの、いかにも彼女らしい上品なデザインの。
「真っ先にあげたいと思ってたの。わたしが一番よね?」
にっこり微笑んで言う。それにつられて、笑った。
「ああ、一番だよ“姉さん”」
そう言えば、笑顔はますます輝きを増して。
「……っと」
小さな姉が、ぎゅうと抱きついてきた。背丈を合わせるようにしゃがめば、耳元でやさしい声。
「大好きよ、わたしのかわいい弟」
彼女はとてもあたたかかった。


玄関の方で声がする。どうやら姉妹が戻ってきたらしい。セイバーとライダーもだ。
「ただいまー」
あれは凛の声だろう。いったん作業を中止して出迎えに行けば紙袋をそれぞれ手にした女性陣たちがただいま、と異口同音に告げてきた。凛はじっとこちらを見て、しみじみと言う。
「アーチャー、あんた……本当に似合うわね、エプロン」
「君の見立てだったと思うが? 凛」
「わたしの目に狂いはなかったってことね」
会話を交わしているあいだに、セイバーが身を乗りだしてすんすんと匂いを嗅ぐようなしぐさをする。
「とてもいい香りがします。あなたごと食べてしまいたいほどです、アーチャー」
「セイバー……あなた、そんなに飢えているのですか?」
「なっ、そんなことはありません! わたしはただ、比喩としてそういった表現をしただけでですね!」
呆れたように言うライダーに赤くなったセイバーが反論する。それをなだめる桜。
「まあまあふたりとも、玄関先でいつまでも立ち話もなんですから。そろそろ中に入ってお茶でも飲みましょう?」
わたしが淹れますから、と健気に笑う。
その声に先に我に返ったのはライダーだ。はいサクラ、と先程とは打って変わった態度で靴を脱ぎ始める。
凛はにやにやとしながらそれを見て、
「ライダーは本当に桜には弱いわねー」
なんて言って口元を押さえている。あかいあくま。
どやどやと上がりだした彼女たちを通すために一歩引く。そこで何かに気づいたように凛が振り返る。
「あ、アーチャー」
「何かね?」
「後でだと忘れちゃいそうだから。はいこれ、あげるわ」
言葉と同時に胸に押しつけられたのはひとつの箱。鮮やかな赤が目を引く。
「……なによ、その顔」
「いや、まさか君からこんなものを頂戴出来るとは思ってもみなかったのでな。少々驚いているところだ」
「とんだ言い草ね。いーい、あんたは“わたしのアーチャー”なのよ? チョコくらいあげて当然でしょうが」
「ところで凛? これの意味は?」
そう言うと、彼女はしばらく考えてから。
「義理以上、本命以下、ってところね」
さわやかな笑みで、きっぱりと言ってのけた。
「難しいところだ」
「親愛の情と取ってくれればいいわ、“わたしのアーチャー”?」
いつもありがとう。
宝石のような輝きの瞳が細まる。
……まったく、敵わない。
「いつも世話を焼いている分は、これくらいでは帳消しにならんぞ?」
「……なにその言い草」
「冗談だよ」
「普段冗談なんて言わないくせに」
笑顔のままべえっと舌を出して凛は遅れて居間へと入っていく。
「あら、おかえりなさいリン」
「来てたのイリヤ!?」
騒動が起こりそうだが、なんとかなるだろう。そう思い台所へと足を運ぶ。ケーキの仕上がりは夜になりそうだ。
―――――約束の時間には間に合うだろう。


「んー、美味しい! そこいらのケーキ屋さんのケーキより十倍は美味しいわねー」
うっとりと言う大河。こくこくとうなずいているのはセイバーだ。
「甘味をおさえて大人の味に仕上げていますが、決してそれだけではなく……ひとことで言えば、美味です」
「最初からそう言えばいいことでは? セイバー」
「ああ、ほらライダー! そんな言い方しないの、ねっ?」
睨みあうライダーとセイバーのあいだに割って入る桜。でも心の中ではレシピを教えてほしいなあ、なんて思っていたりする。
「うん、やっぱりあいつに任せて正解だったわ。わたしの目に狂いはないわね」
フォークを持ちながらつぶやく凛。それにイリヤは、
「当たり前でしょ? アーチャーはわたしの大事な弟なんだから」
そのセリフで小さな暗雲がふたりの上に立ちこめる。同時ににっこりと微笑むふたり。
「わたしのアーチャーだから」
「わたしの弟よ?」
闇が深くなる。ふたりは何の示し合わせもなく立ち上がった。それを見て桜が慌てる。
「ちょ、喧嘩はやめてください、姉さん! イリヤちゃんも!」
せっかくの美味しいケーキがだいなしです!と叫ぶ桜。
「アーチャーさんの努力と頑張りを無駄にしてもいいんですかっ!」
腰に手を当てて言う桜に、う、と引くふたり。視線を交し合って、
「……仕方ないわね」
「こっちのセリフだわ」
渋々そう言うと、元の位置に戻った。無言でケーキを味わうふたりを見て、桜はほっとする。
「よかった……」
それと同時に玄関ががらがらと開く音がして。
「今帰ったぞー」
「おや、シロウが帰ってきたようです」
黙々とケーキを食べていたセイバーがフォークを置いてつぶやく。居間へと入ってきた士郎に、一斉におかえりなさい、と声が飛ぶ。
「先輩、あの、これ! よかったら……」
真っ赤になった桜が駆け寄っていき、士郎に箱を手渡す。全体的にかわいらしいそれを見て、士郎は首をかしげた。
そうして思いだしたように、
「ああ、そうか! 今日はバレンタインだったな!」
「忘れてたの士郎?」
からかうように言って、凛も小箱をひょいと士郎へと向けて放る。その後は全員後に続け、だ。
みるみるうちに箱を両手に抱える格好になった士郎は少し赤くなって、その、ありがとうな、みんな、だのと言っている。
桜はまだ真っ赤になったままうつむいている。その脇腹を肘でちょいちょいとつつきながら、凛は、
「まあ座りなさいよ。ケーキ、士郎の分も取っといたから」
「ん? あ、ああ……」
「アーチャーの作ったケーキですよ。とても美味です」
横目で狙うように見て、セイバーははっきりとした声で言う。アーチャー。その名を聞いた士郎はまわりをぐるりと見回す。
「そういえば、アーチャーはどうしたんだ?」
姿が見えないけど。
その問いにケーキを食べ終わったライダーが答える。
「彼なら、用事があると言って出かけていきました。あまり遅くならないうちに戻るそうです」


「で、話ってのはなんだ?」
意地悪く笑みを浮かべて言うランサーに、眉間に皺を寄せてつぶやく。
まったくこの男は。
「その様子だと、わかっているんだろう?」
「さてな」
手すりに寄りかかって上を向く。わかっている。この男、明らかにわかっている。
「……あまり人をからかうようなら帰らせてもらうが」
「馬鹿野郎、誰が帰すかよ」
背を向けたとたんに抱きついてきた。体温と重み、軽い煙草の匂い。
「むしろ今夜は帰したくねえんだけどな」
「今夜も、の間違いだろう」
「よくわかってんなあ」
軽い声で言うその腕をはねのけ、用件を早く済ませてしまおうと言わんばかりに紙袋に入れておいたものを取りだす。
後ろ向きのままで押しつけるように手渡した。
「犬にチョコレートは毒だというが。なに、君は猛犬だ。それくらい大丈夫だと思うぞ」
皮肉めいたいいざまにも反撃は返ってこない。
ただ、頬にやわらかい感触が押しつけられた。
「―――――ッ」
思わず驚いて身じろぎをすると素早く離れる気配。
「まあなんだ。犬に噛まれたと思って忘れろ。な?」
「君という男は……」
最近では皮肉さえスキンシップのきっかけとして利用してしまうのだから器用なことだ。それに毎度引っかかってしまう己は不器用なのだろうか。
ランサーはがさがさと包装紙を開けていく。もっとこう、乱雑に破いてしまうのかと思っていたから少し意外に思った。
小さく畳んだ包装紙とリボンを上着のポケットにしまって、ランサーは箱を開ける。
とたん目をぱちくりとさせ始めた。
「ランサー?」
「……すげえな、店で売ってるやつみてえだ」
「彼女たちにも言われたよ」
「彼女たち? ……ああ、嬢ちゃんたちか」
「君にもひときれおすそ分けを持ってきた方がよかったかね?」
「いや。オレはオレだけのために作られたこれ一個で充分だ」
さわやかな笑顔で言ったランサーの言葉を呑みこんだ。と、同時に顔がかあっと熱くなる。
「どうしたよ」
「……いや、なんでもない」
こう、“特別”というのをあらためて理解してしまって急に恥ずかしくなったと言えばこの男はなんと言うだろうか。知りたくないから、言わないが。
へえーと言いながらじっと箱の中味を見ているランサーに、ふと思ったことを聞いてみる。
「ランサー」
「ああ?」
「君、仕事先でもらってきたものはどうした。一度教会に戻って置いてきたのか?」
客商売とは言え、女性客にやさしく笑顔を振りまくランサーのことだ。きっと数えきれないほどの戦利品を手にしただろうに。
そう思ってたずねたのに、ランサーはおかしな顔をする。
「もらってねえよ、そんなもん」
「は?」
「全部断った」
「な―――――」
唖然としてぽかんと目と口を丸く開けると、ランサーはまだ箱の中味を見ながら言う。
「本命中の大本命からもらうんだ、嬢ちゃんたちには悪いけどな、受け取れねえよ」
ひゅう、と風が吹く。
なんて。
なんて、ことを言うのだろうこの男は―――――!
「なあ、食ってもいいか」
こっちの心も知らずにうきうきと言ってのけるランサーに、好きにしろと上擦った声で答える。すると顔を輝かせ、さっそく一粒を口に放りこんだ。
「美味えな、やっぱり」
「それはよかった」
やや棒読み気味にそう答えると、ランサーは箱の中を見る。そうしてまた一粒取りだして口に含んだ。
そして、
「―――――んッ!?」
間近にあるランサーの顔。合わさった唇。すぐに舌が入りこんできて、チョコレートを交換し合うかのように口内でうごめく。甘い。
「ん、ふ、」
抱きしめてくる体が熱い。口内も熱くて、チョコレートなどあっというまにとろかしてしまう。漏れる吐息すら甘い。絡めあう、舌さえ、甘くて甘くて甘くて。
……くらくらする。
ようやく解放されて、眩む視界でランサーを睨みつけながら恨み言のように言ってみるが、声が震えてこれでは迫力もないだろう。
「な、にを、するのかね、君、は」
「美味いものは美味いものと一緒に食った方がより美味い」
言いながらランサーはリボンを取りだして、ちょちょいと手を動かす。
「ま、そういうこった」
おまえもチョコみたいなもんだしな、とこちらを見て言う。見下ろしてみれば首に飾られた、赤いリボン。
「それで“私を食べて”って言ってみろよ」
「誰が言うかたわけ!」
神速でほどいて、仕返しのようにランサーの髪留めの上からリボンを結んでしまう。蝶結びにだ。
「あ、おま、これじゃ自分で取れねえじゃねえか!」
慌てたように言うのがおかしくて、少しすっとした。
くすりと笑うとじたばたとリボンと格闘していたランサーがこちらを見る。肩を揺らして笑うのをじっと見て、そうして笑みをこぼした。


「なあ、オレをお持ち帰りしたいっていう意味でいいのか? これは」
「……好きに取るといい」
「よし、今夜は寝かせねえぞ」



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