忘れるな。
男はそう言った。日常、なんでもないことを話して軽く笑いあっているとき、唐突に。このときを、この瞬間を、このオレのことを忘れるな。あまりにもその顔が真剣だったのではぐらかすのは難しかった。少しだけ考える。と、額をつつかれた。う、と思わず声を上げる。
「はぐらかそうとするんじゃねえよ」
「……ばれていたのか」
「おうよ」
すべてお見通しだぜ、と男は胸を張った。そのしぐさがいとけない子供のようで、おかしい。つい笑ってしまうと、また額をつつかれた。とん、と今度はやや強めに。はぐらかすな、と男は言った。
「そう見えるだろうか?」
先程と比べて今回はそんなつもりはなかったので素直にそう言うと、そう見えるな、と男は言った。まるで蝶みたいにひらひらかわされてる気がする。そうつぶやく。蝶。
男らしくないロマンティックな例えに目をまばたかせる。私は蝶のように見えるのだろうか。あんなにふらふらと頼りなく飛んでいる? 風が吹けば一緒に飛んでいってしまいそうに頼りなく?
すくと立って、歩いていたつもりだったのだが。地に足をつけて、懸命にもがいて、あがいて。
あんなに優雅に私は飛べない。
すとん。三度目。さすがに予測できていて、目を閉じて嘆息した。やめないか。おまえがだ。なにをだね。自虐をだ。
「済まないが、これは癖のようなものでな。……いまさら、やめられんのだよ」
「自覚してたのかよ。性質が悪りい。自信を持てよ、もっと」
「なにに関して自信を持てと?」
「オレに愛されていることにだ」
目を開けた。男は指先を額に当てたままで、その本数を増やした。ばらばらばら、とその指は増えて、鼻から口から顔の下半分をあっというまに覆われる。額に当てられていた人差し指が鼻のラインをするりとなぞって、頬の肉を押さえた。苦しいくらいにてのひらで強く口を覆われる。わざとそうして喋れないようにして男は自分が喋りだす。
「いいか。オレはあきらめたくないしあきらめねえ。たとえおまえが、いつか座に帰らないとならなくなったとしてもだ。それも独りで。だけどオレは追いかけてやるからな。まだまだおまえとしたいこともあるし行きたいところもある。……おまえと一緒じゃなけりゃ出来ないことが多すぎるんだ」
首を振る。
無理だと。
私は帰る。そう、遠くないうちに。だから今は笑っていたいのだ。痛くてもいたい。ここにいたい。残された時間は少ない。だから。
「だから、おまえもあきらめるな」
男はあがけと言った。
充分地に落ちてもがいている私に、もっとあがけと、死ぬ気で、死んでいても、さらに死ぬ気であがけと。一緒にあがいてやるからと。無責任に救いの糸を垂らしてやるのではなくて、一緒に落ちてあがいてやるからと男は言ったのだ。
泣きたくなった。
馬鹿なことを言っていると思ったし、その言葉がうっかり生きている心のどこかに染みてしまった、し。
ひどく痛かった。けれど私は泣かなかった。泣いたら負けだと思った。
自分に負ける。そう思った。
うなずくと、男は満足そうに笑う。よし、と言った。よし。
「その決心を忘れるな」
―――――済まない。
それは、出来ない約束だ。
私は笑ってもう一度うなずいた。もしかしたら、淡い期待を胸に抱いて。どうせどうしたって、忘れてしまうのだけど。それでも今は。
今だけは、甘い嘘を。
済まない。


ひらり、ひらり、と蝶が飛ぶ。
私はそれを緩慢に見やった。こんなところに蝶がやってくるとは珍しい。蝶というよりは……自分以外の存在が珍しい。
それは青く、馬鹿のように澄んだ羽根をはためかせてゆっくりと空を飛んでいた。深く澄んで青い。まるで空のようである。一般的な空、というイメージを算出しながらじっとそれを見る。
どこからやってきてどこへ行くのだろう。ぼんやりとそんな無駄なことを思った。
自分自身は磨り減って、さて、これまでなにを考えていたのかも判然としない。荒れ野にひとり立って、次の呼び声を待っている。それだけがはっきりとした自覚できていること。それ以外には、なにもない。
いらない。
小さな声で歌を歌ってみた。なんとなく頭に浮かんだ歌を。別れの歌。誰と別れたのかもわからないまま私はそれを無表情に情感なく、淡々と歌う。さようならあなたさようなら、もう二度と会えないけれど。
会えないけれど、なんだったろう。忘れてしまった。まあ、いい。忘れてしまったということは必要ないのだ。
「みつけた」
侵入者。アラームが頭の中に鳴り響き、剣を投影する。蝶は相変わらず空を飛んでいた。
男は蝶ととてもよく似た色味をしていた。髪から服から青い。青い、青い。目だけが赤い。ここにいて、あまりにも異質である。ちゃりと剣を鳴らして対峙すると、男は何故だか怒ったような顔をしながら、へらりと笑った。
「やっぱり忘れやがったか。馬鹿野郎め」
罵倒される。珍しいことでもなかったので、特に動揺はしなかった。動揺というものも磨り減っていつか忘れてしまった。
「死ぬ気で来てやったのに歓迎がそれか。……ったく、薄情な野郎だぜ。おい、なんか喋れよ。オレばかり喋らせるな。喉が痛いんだ」
そういえば男は今にも血を吐きそうな声をしている。しゃがれて、掠れた声だ。見てみるとその姿もぼろぼろだ。なにもここで殺さなくとも、すぐに死にそうである。あと数分もあれば尽き果てそうだ。
だからといって許すわけにもいかない。世界が言うのだ。異質は排除しろと。
少しでも異質がまじればおまえは穢れるからと。おかしなことを言う。もう私はとっくに穢れてしまっているのに。
「喋れよ」
男は恫喝するように声を低めた。
私は無言。
だって、世界が命じるから。
男は咳きこんで、やはり血を吐いた。何故か手が出て、私はそれをじっと見つめる。この手は一体なにをしようとしたのだろう?
舌打ちをして唾を吐き捨てると、男はささやいた。
私が知らない、睦言のように。
「おまえの声が聞きてえんだ」
どくんと鼓動が高鳴る。私は怪訝に思って心臓のあるあたりを手で押さえた。鼓動が早い。不可解で不快だ。早く排除するべきだろう。さて、と私は剣を構えると男に向かって告げようとした。
と、蝶が私の目の前に飛んできた。とっさに切り捨てそうになって体がこわばる。蝶はひらりと飛んで、剣の先に一瞬止まってから舞い上がって私の唇に止まった。
小さな風を感じるようにはたはたと蝶がはばたく。私は動けなくなった。何故だか。
男はそれを見て満足そうに笑むと、倒れた。
動かなくなった。
私は本当に何故だかわからないけれど、剣を瞬時に戻して男に駆け寄っていた。蝶はひらりと舞ってどこかへ飛んでいく。まるで男の魂のようだと思った。と、すると。男は死んだのだろうか。
きっとそうだと思い、私はせめての餞にとその顔をよく見てやろうとした。うつぶせに倒れた男の肩を掴んで、上を向かせる。
目を閉じた男の顔は美しかった。口元が血に汚れている、と、その血が滲んだ。
私は不思議に思ってその顔を覗きこんでみる。
突然、腕を掴まれて体を引き寄せられた。
男の唇は鉄臭く、塩辛かった。
「騙されやがった」
ばーか、と男が笑う。そして、辛そうな顔をして、私の目元に触れてくる。
「……悪かった。性質の悪い冗談だった。だから、」
冗談?
「泣くな」
左手は私が、右手は男が。
それぞれ伸ばした手が、見開かれた目からこぼれ落ちる涙に触れる。血が滲んだのは、私の流す涙がそこに落ちたのと、私自身の視界が滲んでいたせいだったのだ。理解して、私は少し安堵した。
安堵。
それは、なつかしい感情だった。
男は舌なめずりをして血を拭うと、枯れた声で言う。


「なあ、これからどこへ行こうか?」


おまえの行きたいところ、どこへでも連れて行ってやるよ、と男は言った。
私に触れたまま。
蝶は、もうどこにもいない。



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