森の中をひた走る。戦略的撤退というやつだが、逃走はランサーの望むべきところではなかった。
(―――――情けねえ)
舌打ちをして顔をゆがめる。こめかみから頬へと伝う血がくすぐったい。手の甲でぐいと拭うと不細工な流線形となって赤い筋が残った。それを舐めて飲み下す。鉄錆の味がした。腹の足しにもなりゃしねえとランサーはうそぶく。冗談でも言いながらでないとやってられなかった。
足がもつれる。
消耗した体は思い通りに動かない。立ち止まるとランサーはぱしん、と両脚を平手で打った。つぶやく。
「動け」
動け、動け、動け。
走れ、走れ、走れ。
駆けろ。
おまえにはそれしか出来ないだろう?
「……よし」
時間にして十数秒、ランサーはふたたび走りだす。その速度には迷いがない。ただ駆けろ、と己の足に命じてランサーは駆けた。止まるな。駆けろ、と。それだけを。
木々のあいだを抜けて、ランサーは駆ける。存外に鋭い葉で白い顔が傷ついても止まらなかった。敵は迫ってきている。せめて広い場所へと思って駆けたが、すでに霊体化にすら効果が望めないこの状況で辿りついてどうするというのだろう。
迷うな。
ランサーは自分の足に命じて駆けた。あきらめるな。最後まで、最期まであがけ。そう命じて。
木々のあいだを抜けると、ぽかりと開いた空間に出た。月明かりが容赦なく降り注ぐそこを、決戦の場だとランサーは確信した。
と、足がふたたびもつれる。
「げ」
切実な、だが間の抜けた声を上げてランサーは必死に体勢を立て直そうとした。だが間に合わない。自分で自分の足につまづいて転んでしまう。
前転するように転がって背を打ち、数回バウンドして止まる。
いててて、と声を上げて立ち上がろうとしたが出来ない。足腰がいうことをきかない。走りつづけたツケが来たかと笑う。
「……だらしねえったらねえな」
敵はなにごとかわめいている。それが最期の言葉か、だとかなんとか。そんなわけあるか馬鹿野郎。
だが魔槍を出す力も、もう、ない。
「ああ、あいつに―――――」
言いたいことは思いつかないが、なにか言わなければいけないような気がした。だけれど都合よくこの世が出来ているわけはなくて。
ランサーは目を閉じる。仕方ねえと。男は潔さが肝心だ。
体から力が抜けてあがくことも出来ない。
口をもごもごと動かし頭の中の“あいつ”の名を呼ぶ。敵はそれを嘲笑ってランサーの脳天めがけて武器を、振り下ろし、た―――――


火花が散った。次いで飛び散る鮮血、跳ねる首。
衝撃が別の方向へと向けて放たれたことに少なからず驚いたランサーは閉じた両目を開ける。と、そこには。


「なにをやっているのだね、君は」


その開いた目に焼きついて離れないほどに鮮烈な赤い背中があった。


「―――――あ?」
「あ、ではない。なにをやっているのだねと聞いたのだよ、私は」
「おまえこそ」
剣についた血糊を払うと、赤い弓兵。アーチャーは首だけで振り返りその口元を吊り上げた。
「ただの気まぐれだ」
敵がなにかわめいている。けれどそれはあまりにも雑音すぎてランサーの耳には届かない。すうっと一本、線が引かれたアーチャーの声だけが響いてくる。
それはまるで澄んだ水のようだ。
淀んだ場を洗い流す、怒涛のごとくしかし静かな流れ。
ランサーはふ、と笑った。
「気まぐれ、ねえ」
「気まぐれだ」
アーチャーもふ、と笑うと、今度は体ごと振り返り早足にランサーの元へと歩み寄ってくる。なにか、と思っていると顎をとらえられて、そして。
「―――――」
敵がさらに大声でわめくのが聞こえた。口汚いスラング。ふわりとアーチャーは体を離し、いまランサーにくちづけたばかりの唇を動かしてやはり早口に告げた。
「これでしばらくはもつだろう。私がこいつらを絶やすまで待っていられるな?」
そうしたら魔力を分けてやる、というのにそれが遠回しな行為の許しだと気づく。ランサーは数度目をまばたかせて、ああ、と答えた。
「よし」
言い切って背中を向けたアーチャーにランサーは呼びかける。
「なあ、おい」
「なんだ」
「今のも、そいつも気まぐれか?」
「ああ、気まぐれだとも」
「そうか」
「……他に言いたいことは?」
ランサーはしばらく考えると、さらりと告げた。
「愛してるぜ」
アーチャーの体がかたむく。おそらく眉間を押さえるゼスチュアをして、低い声で吐きだした。
「たわけが」
言って、飛ぶ。悲鳴と怒号と血しぶき。おうおう、とそれを眺めやりながら、ランサーは木に寄りかかる。
薄れていたつま先を軽く揺らしそっとささやいた。


「ずいぶんと気のきいた気まぐれもあったもんだ」



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