ぷは。
唇を離す。肩で息をしながら少し濡れたそれを拭った。
「―――――どうだ」
勝ち誇るように笑って、士郎はアーチャーを睨みつけた。そのアーチャーはまばたきひとつ、ふたつ。ことさらゆっくり繰り返してから、まぶたを開ける。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………な、なんだよ」
鋼色の瞳は曇ってもいなければ澄んでもいない。何も感じていないのだ。今のくちづけに。
「言わせてもらえば……」
「ああ、いい! 言わなくて、言わなくていい!」
「拙い、のひとことだな」
「言わなくていいって言ってるのに!」
人の話を聞きやしない。いや、俺の話だから聞かないんだ。士郎は思う。思って、頭を抱えてしゃがみこんだ。
拙い。つたない?


(1)物事に巧みでない。へたである。まずい。
(2)能力が劣っている。おろかである。
(3)運が悪い。
(4)卑しい。見苦しい。
(5)ひきょうである。意気地がない。


―――――ッ、
「誰が、意気地なしだって……」
アーチャーは。
ただただ、無言で士郎を見下ろしただけだった。受け流す。柳のようにしなって、そのまま猪のような勢いで立ち上がりまでした衝撃は士郎に跳ね返るだけだ。
本当にかわいくない、と歯噛みする士郎だったが、かわいいアーチャーというものも考えにくい。たまに、凛と喋っているときにはなんだか信じられないような笑みを見せたりするのだけど。
士郎に向けては、一度も、ない。
無表情か皮肉に笑うだけだ。
今だって、ほら。
(そっぽ向いてやがる……!)
大体、なんでだ。
拙いとか、駄目だとか、はっきり言ってへたくそだとか。
そんなことを言うのなら、どうしてキスさせるんだ。
なしだぞ。
士郎がさせろとねだるから、だなんてのは。それだけは。そんなの、ただあやされてるだけじゃないか。子供扱いされてるだけだ。
……子供扱い?
「ふ、ふふ」
「衛宮士郎?」
とうとう壊れたか、なんて無表情で言うアーチャーに怒鳴り返しもせずに、士郎はこぶしを握りしめた。そうか、そうか。
そういうことか、アーチャー……!
めいいっぱい背伸びすると、ようやっと届いた。だけど、ちょっとだけアーチャーが身をかがめていたことに気づいてぐっと握りしめたこぶしに力を入れた。ああ、また来るぞ。
ほら。
口端が吊り上がる。澄んだ鋼色の瞳が猫のように細められて士郎を見た。
士郎は見た。その瞳に映る、激昂した自分の顔を。
「そうやって人を馬鹿にしていられるのも今のうちだぞ、アーチャー」
「馬鹿にしているのが今だけだとでも?」
「ああ、もううるさい!」
がっしと褐色の頬を両側から挟みこんでやる。さらに背伸びすることで、唇と唇を間近に近づけた。
わずかな呼吸の流れを表面に感じる。ああ、肌は冷たくても呼気は温かいんだ、なんて他人事のように士郎は思った。
「黙ってろ。子供扱いなんて出来なくなるようなキス、してやるから」
「何を言い出すかと思えば―――――」
ッん、と続きを唇で塞いだ。
(ええっと)
思いだしながら。
何をかと言えば、映画で見たそういうシーンだとかをだ。自分の前にある唇に、ぶつける。
食んで。
噛んで。
吸って。
齧って。
なぞって。
感覚器官全部を使うようにキスをする。
息が出来なくなるんじゃないか、とかそんなことを思うくらいに熱をこめて。
ぬるりと滑ったのは手だった。てのひらに汗をかいていた。だから。
慌てて片方ずつ服で拭いてからまた、固定する。素早く。そのあいだも唇を動かすのはやめない。
責めて。
舐めて。
絡めて。
掬って。
なぶって。
―――――辿って。
舌だけじゃなく、歯や他の部分も使ってアーチャーの口内をまさぐる。なんだか、と必死になりながら士郎は思った。
なんだか、戦ってるみたいだ。
「…………ん」
目を見開いた。
いつのまにかつぶっていたらしい目を開く。とたんに鋼色と視線が真っ向からかち合ってどきりとする。
その鋼色は、少し、曇っていた。
「え」
突き飛ばされる。よろけて、足が絡まって地面にしりもちをつく。暗い夜。見えない。顔色は見えない。
ただただわずかに曇った鋼色だけが目の前をいっぱいに染め上げる。
「凛が呼んでいる」
それは、戯れの終わりを意味していた。
余韻も残さずにアーチャーは消え去る。士郎の、目の前から。まるで最初から、いなかったように。
「…………アーチャー、の声、だったよな」
だというのに。
触れてみた唇は熱を持って、ほんのちょっとだけ。腫れたようだった。
なんだろう。
「すごく……」
すごく。
そう、すごくだ。
士郎は唇に触れたままつぶやく。アーチャーを、たった今まで確かめていた唇を。
「すごく、ぞくぞくした」
あの、曇った鋼色。
消える瞬間、目を伏せるようにして視線を逸らしたアーチャーの横顔。
触れられなかったけれど。いや、触れられなかったからこそ、だろうか。とても、それは―――――。
それは?


空を見上げる。たったひとつの星さえもない曇り空。
誰も。あの鋼色を見ていないのだと思うと、士郎はなんともいえない、あえて言うならば征服感に似たようなものを感じてぼう、と空を見上げたまま、地面に座りこんでいたのだった。



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