「シロウ」
甘い声で、小さな姉は自分を呼ぶ。
もう擦り切れて失くしてしまった名前で自分を呼ぶ。覚えていないと言いたいけれど心の底にそれは残っていて。
「ねえ、シロウ」
嫌だった。
でも、小さな姉にそう呼ばれるのはどうしてだか嫌いではない。うずうずと体のどこかが疼くけれど、それは不快ではないのだ。何故だろう、と考えてみても、一向に答えは出てこない。――――何故だろう。もう、擦り切れて考えることすら放棄してしまった自分では、そんなことすらわからない。
「姉さん」
イリヤスフィール、と呼べば小さな姉は怒るから……他人行儀だと言って……だから、親愛を込めるような呼び方でそう答えた。
そうすれば小さな姉は笑う。本当に嬉しそうに。目を細め、唇を綻ばせ、本当に。
でも、だけど。
整った眉だけは、どうしてだか寄っている。
どうして。
ねえさん。
オレは、正しい呼び方で貴方を呼んだはずなのに。
「シロウ?」
小さな姉の声が上向きになった。だから自分は腰を屈める。目線を合わせる。本当は得意ではないのだけど。それでも、そうする。合図だから。
“ねえ、わたしを見て”
小さな姉が言って、自分も取り決めて。真っ直ぐに誰かの顔を、目を、見るのは苦手で。
でも、赤い瞳を見るのは。
それだけは。……どうして、だか。
赤い瞳は三つある。
小さな姉の瞳。アイルランドの光の御子の瞳。人類最古の英雄王の瞳。
その中で真っ直ぐに見つめられるのは小さな姉の赤い瞳だけだ。後者ふたりの赤い瞳はどうにも苦手である。射抜かれるような、そんな気がする。けれど、……けれど。小さな姉の瞳は、あたたかい。
自分の心の中に火を灯してくれる。
冷たく凍った心に、火を。やさしい火を、灯してくれるから。小さな手で、柔らかい手で掬うように。無理をしないように灯してくれるから怖くない。シロウ、と呼んで。
冷たい心を、ゆっくりと溶かしてくれる。
しかし、鉄となった心は溶けた端から凍っていくのだけど。
ざくざくとしたみぞれのようだ。
時々不安になる。白くてか細い小さな姉の手が、しもやけでも負わないかと。寒い国に住んでいた、住んでいる姉だけれど、きっとこんな寒さには慣れていないはずだから。だから、申し訳なくなる。
それでも、自分の手では小さな姉の手を包み込んでも温めることは出来ない。
冷たい、冷たい、鉄のてのひら。
「シロウ」
小さな姉が声を上げる。
「姉さん」
何か、と問い掛ける。すると、ふと。
「――――」
かすかに触れる、温かい手。小さな、手だ。
「ねえ、響く?」
問い掛け。
意味が咄嗟に掴めなくて、きっと自分は間抜けな顔をしていたのだろう。
小さな姉はくすり、と笑って、
「わたしがあなたの名前を呼んで。それは、あなたの心に響いたかしら?」
晴れやかな笑顔。
なのに、寄った眉。
どうして、ねえさん、
「シロウ」
「……姉さん、オレは」
「ねぇ、シロウ」
これは、あなたの名前よね。
念を押すように、小さな姉は。
「……もう、失くしてしまったんだ」
「嘘。だって、“シロウ”って呼んだらあなた」
眉が、解ける。
「少しだけだけど。嬉しそうな、顔をしたわ」
「…………?」
嘘。
それこそ、小さな姉が吐いているものではないのか。嬉しそう?どうして。そんなものはもうとっくに失くしてしまったもの。何も感じない。喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさでさえ。
だと、いうのに。
「ねぇ、シロウ」
持っていてね、と小さな姉が笑う。今度こそ本当の笑みで。
「大事なものよ。失くさないで、持っていて」
もう、とっくに失くしてしまったというのに?
「オレは……」
心の底。
そこにあるものは、果たして。



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