遠坂凛は顔を歪めていた。その美しい顔を惜しげもなく、たった一人の男のために。
「馬鹿だわ」
「ああ」
「馬鹿だわ。あんたも、あいつも。みんなみんな馬鹿」
「そうだな」
その幸運な男は、笑って遠坂凛の頭を撫でた。まるで少女のころのようにぐしゃぐしゃとやられたので逆らって頭を振ってやった。手に爪を立ててやりたいけれどそんな年でもないし男はとても素早い。本当に馬鹿のように。
何を決めるのにだって素早いのだ。
「―――――どうして相談しないの。過去のことは言わない。責めたってわたしが馬鹿になるだけだから。わたしは馬鹿じゃない。もういい大人だもの。背も伸びたわ。髪だって伸びたのよ。あんたたちはちっとも変わらないじゃない。わたしの方がよっぽど大人よ。大人なんだから、わたしに相談すればよかったのよ」
遠坂凛は言いながら、それが愚痴だとわかっていた。けれど言わずにはいられなかった。そんなのはみっともないと知っていたけれど、それでも。言わせてほしかった。
「ばかなんだから」
鼻声を出した遠坂凛は下を向いてしまった。涙が落ちそうになるのだけはごめんだと思ったのだ、子供じゃあるまいし。
下を向いて耐えれば、懸命になれる。もっと懸命に。たやすく落ちてしまいそうな涙を止められる。
わたしは泣かない。
「泣くな、嬢ちゃん」
「泣いてないわ。それに、もう嬢ちゃんなんて呼ばれる年じゃないの」
「オレにとってもあいつにとっても、嬢ちゃんはいつまでも嬢ちゃんさ。いつまでたってもな」
「あんたにはもういつまでもなにもないじゃない」
「ああ、ないな」
「どうしてそんなこと笑って言うの。馬鹿じゃないの」
「ああ、馬鹿だ」
「馬鹿よ」
とうとう涙声になってしまった遠坂凛に、男は一本の槍を握らせた。紅いそれは男自身だ。あっけないほど簡単に、男はそれを遠坂凛に預けてしまった。
己の命を奪うものを。
「こんなもの預けられたって困るのよ」
「わかってる」
「それでも?」
「それでもだ」
遠坂凛は泣き顔のまま、面を上げて男を睨みつけた。男はいつか見た彼のように、困った顔で笑っていた。
「嬢ちゃんも知ってるだろ。―――――あいつは寂しがり屋だから、オレがついててやらねえと」
遠坂凛は。
遠坂凛は、ごしごしと槍を握らされたのとは逆の手で目を擦った。きっと翌日は赤くなってしまうだろう。彼女の常に優雅であれという意志に反して音を立てて鼻をすすって、さらにきつく男を睨みつける。
「この馬鹿!」
男は突然の大声に目を丸くする。その顔に少し胸がすっとした思いをして、遠坂凛は笑った。無理矢理にでも、笑ってみせた。
「…………って。あいつに会えたら、言っておいてちょうだい」
少女のころよりは背が伸びたけれど、男はそれでも遠坂凛よりよっぽど背が高い。顔つきはひとなつこく精悍で、青い髪はどこにもない珍しい色味をしていた。太陽のような笑顔の男だった。
もう会えない。
「さて、と」
深呼吸をする。ちょっとだけ震えていた声を、それで整えた。
少女のころのように遠坂凛は笑う。意地悪く。…………あかいあくまの再降臨だ。
「お別れの時間ね。最期に言うことはあるかしら? ランサー」
男は。
ランサーは、考えるしぐさをすると、ちらりと柱の傷を見やってから、胸を張って、言った。


「オレは忘れねえ。嬢ちゃんのことも、他の奴らのことも、薄情なあいつのこともだ」




時計の針は巻き戻せない。
アーチャーはちくたくと小さな音が響く居間に一人で立ち、ぼんやりと考えていた。どうしてずっとここにいられないのだろうか。
ちゃぶ台は小さく、狭い。ここに食器を並べて騒がしく食事を取る。衛宮士郎、セイバー、遠坂凛、間桐桜、ライダー。
ランサー。
「…………」
そっと唇に指先を当ててみる。確か初めは乾いていたはずのそれはいつのまにか潤っていて、そんなにくちづけを重ねていたのかとふと思った。
「……そうか」
だけれど触れた唇の感触はどうにも希薄で、思い知らされる。どうしてもずっとここにはいられない。
世界の呼ぶ声がするのだ。帰ってこいと。
“おまえには、安楽は許されない”と物のような扱いをされても当然だった。だってアーチャーは世界のものだ。
それでもここにいたくて、出来る限りはいたくて、頑張ってきた。頑張る、だなんて彼らや彼女らに出会うまではかけらも考えもしないことだった。答えを得て、消えるはずで、なのに存在していて、ここに連れてこられて何年経っただろう。
指折り数えて考える。片手を越えて、軽く眩暈がした。
とん、と柱にぶつかる。幸福感と世界からの牽引に、視界が歪んで治らない。荒く息を吐きなんとか鼓動をおさめようとした。とくとくとく、と小走りに鼓動が駆けていく。指の隙間からすりぬけて逃げていこうとするのをアーチャーは必死に追いかけた。これを、これを自由に出来ればあるいは。
あるいはもっと、この場に。
「…………」
天井をあおぐ。
小さく言葉と共に嘆息した。
「無理だろうな」
誰も聞くことのない言葉はうつろに空気に溶けた。アーチャーは思う。
自分が溶けて消えたらあの男はどう思うだろう。
「…………っぐ!」
心臓を押さえた。
「わかって、いるさ」
呼んでいる。世界が。
ずっと前からそうだった。目を逸らして時間をすごしてきた。わざと。そうしてランサーに愛されて、多幸感の中で生きていた。世界の呼ぶ声を無視してずっと。時間が経つたびに重くなる枷を無視して、すごしてきた。
すごしてきてしまった。
柱に爪を立てる。英霊としての身のせいで、大した力もこめていないのに、柱はがりりと音を立てて削れた。残る爪跡。
それを眺めて、口にした。
「ランサー……」
君に、嫌われてしまわなければ。


全部話してしまうという選択肢などもちろんなかった。


イラつく。
ランサーは機嫌が悪かった。普段はほがらかなひとなつこい男であるのに、最近は、煙草のフィルターをあからさまに不機嫌な顔をして奥歯で噛んでいる。もう少年ではなくなった衛宮士郎がとがめても、変わらぬセイバーがたしなめても聞かない。
ランサーの不機嫌の原因は彼ら彼女らではなかった。遠坂凛でも、間桐桜でもライダーでもない。
アーチャー。
彼がランサーの様々な感情の根源だった。喜び、悲しみ、楽しさ、そして怒り。すべてをアーチャーが握っていて、それを揺さぶる。
驚くほど簡単にアーチャーはランサーを操った。操った、などと人聞きの悪いとアーチャーならば言うだろう。眉間の皺と尖らせた唇が容易に想像できる。そしてそれをなだめるようにくちづける自分も。
だけど、もうずっとそんなことはしていない。ランサーはアーチャーにくちづけてもいなければ、抱いてもいない。
物理的な意味にしても精神的な意味にしても、だ。
アーチャーはおかしい。
明らかにランサーを避けていた。日頃普通には接している、それなのに二人きりになろうとしないのだ。以前はランサーが部屋に誘えばなんのかんのと言いながらついてきた。それなのに今では二人きりになる気配があればすぐにどこかへ消えてしまう。
明らかに逃げているとしか思えない露骨さで。
「なあ」
「なんだろうか」
「オレ、なにかしたか」
「なにも」
「じゃあなんで逃げる」
「逃げる?」
「逃げてるだろうが。今だってそうだ」
押しつけた柱には何故か爪跡のような傷がある。だが気にせずにランサーはアーチャーをさらに押しつけてその傷を隠してしまうと足のあいだに足を入れて、開かせた。軽く顎をとらえようとすれば冷めた視線で避けられる。
イラっとした。
まただ。
「アーチャー」
低く押し殺した声で名前を呼ぶ。が、無言だ。鋼色の瞳は畳を見て、ランサーを見てはいない。完全にそれで頭にきて、舌打ちをして、体を離した。正直熱くなった体はなにかを勘違いしそうだったが死に物狂いで抑えることでそれが怒りだと納得できた。
でなければ欲情だと勘違いして無理矢理に押し倒していただろう。概念武装ではなく人の着る服など簡単に引き裂いて、首筋に舌を這わせて、下肢に触れて、無理矢理に。
首を振った。
「……勝手にしろ」
突き放すと、前髪が多少降りて表情が隠れた。まさにアーチャーの思うがままのようで奥歯を噛みしめる。
鋼色の瞳は畳を見ていた。
ランサーを見てはいなかった。決して。
そんなことがあって、しばらくアーチャーとは離れていた。その間の処理はというと、していない。おかげで肉体面でも精神面でも暴発寸前だ。自分で抜くなんていうのは惨めだったし、他の相手を探すなんていうのは裏切りだと思った。
アーチャーに対してではない。アーチャーを愛すると誓った自分への裏切りだ。
がじり。
イラついて、ランサーはフィルターを噛みしめる。煙草は半分近く灰になっていた。そういえば最初はアーチャーは煙草の味がする唇は嫌だと言っていなかったか。それがとろけてしまって何も言えないようになったのはいつごろだったろう。
もう、何年前になる?
呆然とした。
年単位。英霊になってから時間の流れなど意識していなかったが、あらためてそれを認識してランサーは呆然とした。そこまで誰かを愛した自分、それを反故にした相手。裏切られた誓約。
……急に、許せなくなった。
「ちっ!」
ちゃぶ台に手をついて立ち上がる。加減など出来なかったので、みしりと音が鳴ってひびが入った。だが、かまうものか。
居間にはランサー一人だけだ。ちょうどいい。
家の中にだって―――――ああ、ほら、ちょうどいい。
ランサーは柱の傷を見た。無感動な瞳で一瞬だけ。そうして、居間を後にした。


「入るぞ」
無言。
わかっていたので、開けた。
瞬間、音がなくなった。耳が痛いほどの沈黙が訪れる。いたい。いたい。いたい。
これはなんだ。
アーチャーが座りこんでいた。部屋の、ちょうど中央で。自分の体を自分で抱いてくずおれるように沈んでいる。
その身はうっすらと向こう側を透かして消えかかっていた。
「アーチャー!」
もうその瞬間なにもかも忘れてランサーは中へと飛びこんでいた。加減なく薄らいだ肩を掴んで、振り回すようにして顔を上げさせる。先程の呆然など子供だましだ。自分を忘れて、まさに呆然自失となってランサーは鋼色の瞳を見つめた。
真っ赤に燃える瞳にさらされて、消えかけたアーチャーはとても小さく見えた。
「おい」
無言。
「おい、アーチャー」
無言。
「おまえ、」
すべてが無になる。
ただごとではないと馬鹿だって気づくだろう。己の指がアーチャーの腕にめりこむのを見て、ランサーは目を見開く。
ずぐりという無残な効果音を付けたくなるその光景も、感触がなければどこまでも現実味がなかった。
「おまえ、いったい、どうした」
間の抜けた質問だと思った。
だが、ランサーの一番聞きたいことがそれだった。
アーチャーは荒く息をついている。存在だけではなく、目線までもがうつろだった。どうやら話す気力もないらしい。ランサーのことも気づいているのか、どうか。ランサーは舌打ちをすると、うなだれたアーチャーの唇を無理矢理に奪った。
唾液を媒介にしてほとんど略奪する勢いで回線をつなげる。初めは流しこまれているだけのアーチャーだったが、やがてこくこくと赤ん坊のように喉を鳴らし始めた。
「―――――ん」
「…………っ」
「ふ、」
実体を得たとたんに気がついたのか、うつろな目をしていたアーチャーは瞬きをひとつするとランサーを認識し、突き飛ばそうと動く。が、ランサーはその前にアーチャーの体を抱きすくめてしまった。逃げられないように抱きしめた。
「おまえ、どうしたんだ」
「…………」
「あの様子、尋常じゃねえ。……今だって気を抜けば消えそうだろうが。どうした、言えよ。オレに言ってみろ、アーチャー」
「…………ランサー」
吐息のようだった。
か細い声はやっと絞り出したもののようだ。アーチャーは悩ましく嘆息して、それがランサーの耳元をくすぐる。
「話さなくてはいけないだろうか」
「ああ、いけねえな。だっておまえはオレのものだ」
「君のもの…………」
ぐいと抱く腕に力をこめた。早口で熱っぽくささやく。
「違うのか」
今度はランサーの吐息がアーチャーの耳元をくすぐったのか。
わずかにアーチャーが身を捩って逃げるように動く。しかしそれは一瞬で、あきらめたようにアーチャーは体の力を抜いた。染まらない白い髪を空気を含ませるようにかきあげて、かきまわして、丸い後頭部のラインに沿って愛撫するように動かすと猫に似せてかぶりを振る。
「違うのか、アーチャー」
「違うんだ、ランサー」
目を見開いたランサーに、静かにつぶやくアーチャーの声が聞こえた。
「私は、世界のものなんだ」
そうしてアーチャーは理由を話し出した。これまでの拒絶や沈黙が嘘であるかのように素直に。
世界からの牽引。痛む心臓。呼ぶ声。答えは聞かないとばかりに強制的に消去されていくアーチャーという存在。それはこの場所から、衛宮邸という場所から、ランサーの前から消えて、座へと連れ戻される絶対の力。
戦えと。働けと世界は言う。おまえの役割を果たせ。ここはおまえの場所ではない。おまえの場所は私だ。世界は言う。帰ってこい。
私の元へと帰ってこい。すべて忘れさせてまた使ってやろう。働かせてやろうではないか。それがおまえの望みだ。人のように、幸福に生きるなどという甘い願いがおまえの望みだったのか?違うだろう。
それ以上苦しみたくなければ早く帰ってこい。私の元へ。さあ早く。
「私は、世界のものだ」
もう一度アーチャーは繰り返した。その声は淡々としていた。
ランサーは目を見開いて話を聞いていた。
「―――――それで? おまえはどうしたんだ」
「せめて君に嫌われることで、後悔なく戻ろうと思った」
「どうしてそこでその考えが出てくる。わからねえ」
「そうすれば、あきらめもつく」
君は私などを愛してくれた。
だから、そんな君に嫌われてしまえばこの世界に未練はないと思えると。
「それは勘違いだ。おまえは間違ってる」
「私は……最初から間違っていたよ」
「オレに愛されたのが間違いだと?」
うなずく。
うなずいて、困ったように笑ってみせた。
話を聞くために離していた体をもう一度衝動的につなげたくなって、ランサーは奥歯を噛む。ニコチンの味。なんていう顔をして笑うんだ。
これはすべてを自分で決めてしまった顔だ。もう聞く耳を持たないという笑顔。本当に強情だ。
「私は幸せになってはいけなかった」
胸に手を当ててアーチャーは目を閉じる。網膜になにかを焼きつけるように、しばらくそうしていた。
そこで幸福そうにしてみせるのは間違いだと思った。話してしまって楽になったのなら、泣いてわめいてでも助けを求めたらいいのだ。ランサーにすがって名前を呼んで、傍にいたいと言えばいい。誰もみっともないだなんて言わない。衛宮士郎だって、セイバーだって、間桐桜だって、ライダーだって、そう、あの、遠坂凛などは特に烈火のごとく怒りをこめて罵るはずだ。
どうしてもっと早く言わなかったのだと。
もしかしたらこの異常に彼女はもう気づいているかもしれない。彼女の名前を口にすればアーチャーは踏みとどまるだろうか。
あの嬢ちゃんが泣くかもしれないとランサーが言えば。
……ランサーは頭を振った。それは、卑怯だ。
たった今、泣いてしまうかもしれないのはランサーであって、遠坂凛ではない。
「ん」
ふたたび唇を合わせる。今度は淡く軽いくちづけだった。すぐに離れるとランサーは以前のアーチャーの唇を思い出す。乾いていた薄い唇。初めて奪った時、確かアーチャーは怒ったはずだ。ああこいつこんな顔も出来るのかと。そう、思った覚えがある。
「ランサー?」
不思議そうにたずねる声がする。まぶたにくちづけた後でそこを舌でべろりと舐めると、アーチャーは軽く体を震わせた。
「ランサー」
「いいか」
確認ではなく断定で言った。そして続けた。オレはこれからおまえを抱く、と。
アーチャーは目を丸くしている。
「……何故」
「オレの魔力をやる。少しでも現界していられるように、あわよくば世界の手綱なんかぶっちぎれるように、ありったけの魔力をくれてやるから、オレとずっと一緒にいろよ、アーチャー。頼む」
最後が自然と哀れみを乞う口調になってしまった。ランサーは乞う。同時に支配しようと企む。
ずっと一緒にいろ。離れるなんて許さない。
許すものか。
畳に仰向けに押し倒されても、アーチャーは何も言わなかった。あきらめたように体を投げ出しているのを見て愚かにも欲情する。
ずっと抱いていなかったのだ。仕方ない。
そう己を納得させてランサーはアーチャーの肉体を開かせていった。丁寧に指を濡らして器官をほぐし、そのあいだに体中にくちづけの雨を降らせる。そのひとつひとつに魔力をこめた。
指先を挿しいれると、アーチャーは小さく呻いて眉を寄せる。空になりかけた身に注がれる快楽と魔力は彼にとって辛いのだろう。あと彼が言うには「あきらめようとしていた」ランサーの存在も、ひどく辛いはずだ。
馬鹿な話だが、嫌われることであきらめようと必死になっていたところに与えられた存在は大きいことだろう。
苦しめばいい。ランサーは思った。そうして、自分とこの場所に執着するといい。世界からの呼び声なんて聞くなと怒鳴りつけてやりたかった。そうして、抱きしめてやりたかった。
本当に薄情な奴め。
「……行くぞ、アーチャー。しがみついてろ」
「待て……ランサ、あ、あ―――――!」
色っぽい悲鳴には程遠い、絶叫に近い声をアーチャーは迸らせた。押しつけるようにして腰を進めていけば以前よりきつくなったような体が無理に飲みこまされて軋みを上げる。その苦痛を少しでも和らげようと、快楽に眉を寄せながらランサーは喘ぐ唇に唇を合わせ舌を絡めて、唾液を飲みこませた。下に強烈な魔力を注ぎこむ前に、上から慣らしていく。
あまりに濃密な魔力のせいか、アーチャーはしばし叫ぶのを忘れて荒い息だけをその濡れた唇から漏らした。
鋼色の目はおそらく生理的な涙に濡れている。その目さえ涙ごと舐めて、また、まぶたにくちづけた。
「おら、だらしねえぞ。澄ました顔してろだなんて無茶は言わねえ。だからせめてもっといい声で泣け」
「ッ、無茶を…………」
「無茶か? 確かにしばらくご無沙汰だったから辛いのはわかるがよ、けどな。……前はしてただろ」
こうやって、と腰を押しつける。生え際まですっかり押しこんでしまうとアーチャーは身動きが取れなくなった獲物のように身をこわばらせた。どうだよ、と言いつつそのあいだにも体中にくちづけるのは忘れない。
「いいか? 辛いか? ……アーチャー」
「…………!」
左右に首を振る。とても答えられないと。
「それなら、答えなくてもいい」
どっちにしても最後まで抱くのだ。ランサーは抱え上げた褐色の足を引き寄せると、それ以上は入らないと思われた熱をさらに奥に入れようと試みる。
「! ―――――ランサー……!」
びくんと体が跳ねた。それにつられて暴発寸前だったランサーの熱も中で引き絞られる。数秒の違いはあったもののほぼ同時だった。
「っく…………」
「あぁっ……!」
精を介して注ぎこまれる魔力。体から抜けていく力と、奇妙な充実をランサーは感じていた。
完全にぼろぼろと涙を流して荒い息をついているアーチャーに深いくちづけをして、またも魔力を流しこみながらそれでもまだ足りないのだろうと思う。
そうして、ランサーは何度もアーチャーを抱いた。あらゆる方法で魔力を彼に注ぎこんだ。コップになみなみと入った水が蒸発していくように自らを維持する魔力が枯渇していくのがわかってはいたが、止められなかったのだ。
だって、アーチャーの体はまったく改善する様子を見せない。
どれだけ抱いても、魔力を注いでも、その輪郭はぼやけていてときおり消えそうになる。それほど世界の牽引力は強いのか。
ランサーは舌打ちをした。すっかり脱いでしまった服が皺になるのもかまわず、その上に乗り上げてアーチャーを抱きしめようとする。
と。
「!?」
突然唇を塞がれて、ランサーは息を止めた。目を開けたままなので、鋼色の瞳に映った自分の顔がいかに驚いているかよくわかる。間の、抜けた顔だった。
ぬるぬると舌を絡められて、唾液を注ぎこまれる。ほんわり温かくなった体に、魔力を返還されたことに気づいた。
「な……!」
隙間から声を上げてアーチャーを突き放そうとするが出来ない。強くランサーの頭を抱えて、アーチャーはランサーの舌を吸いつづける。そのたびに体が熱くなって、魔力が充填されていくのがわかる。ランサーは慌てた。
「なっ、に」
満身の力をこめて、ランサーはアーチャーの肩を掴んだ。唾液でつながった回路を力ずくで断ちきるとすぐさま体を引きはがす。
「なにしてやがる、馬鹿野郎!」
「それはこちらの台詞だ。……君、消えそうになっていたぞ。気づかなかったのか」
「は?」
見ると、じじじ、と音が鳴って障害が起きたようにてのひらが輪郭を歪めた。もう一度ランサーにくちづけて唾液を送り、それを治めるとアーチャーはささやく。
「まったく、君は」
その顔は笑っていた。目が未だ涙に濡れていたので、泣き笑いのような表情になった。
「君は馬鹿だ。そして…………愛しいひとだよ。とても」
「おい」
「別れの時間だ。……しつこく呼ばれているのでね。私はもう行く」
「おい、あきらめるのかよ」
「ああ。最後に、君にこうして抱かれて、満足した。もう、私の体は魔力をどれだけもらっても維持できないことが知れたしな。それに、もし維持できたとしてもその結果、君が消えてしまって私が耐えられると思うか? だから、これでいい」
「……いいわけあるか!」
「いいんだよ、ランサー」
ランサーは怒鳴ろうとした声を飲みこんだ。かつての少年のように、アーチャーは笑っていた。
部屋は夕暮れのせいかオレンジ色に染まっている。その光が均整の取れた裸体に温かさを投げかけて、その場は感動的な別れのシーンのように仕立てあげられていた。
「寂しいけれど、これでお別れだ」
最後にというかのようにアーチャーは手を伸ばしてくる。それがランサーの頬に触れる寸前、アーチャーは無数の光の粒になって消えてしまった。
ランサーは呆然とした。指先が頬に触れる寸前、聞こえた言葉。


君に愛されて私は幸せだった。


「そんなこと、最後に言う奴があるか……!」
薄情な奴め。
つぶやいて、ランサーは泣いた。
怒りにか悲しみにかわからずに、自分でもわからずに、誰を責めるかもわからず、心が命じるままに、泣いた。




遠坂凛は居間に一人、立っていた。手に持っていた槍は消えてしまい、彼女の手元にはない。
ランサーの心臓に突きたてた瞬間、同化するようにその槍は彼の体に溶けて消えてしまった。その身に己の分身を飲みこんだランサーは、遠坂凛を見て、愛おしそうに見て、笑うと光の粒になってこれもまた消えていった。
「馬鹿ばっかりよ」
わたし、あんたを殺したくなんてなかった。それがあいつを救う結果になろうとも。
「そうよ、生きて、どんなにみっともなくても生き延びて、泣きながらでも追いかけて捕まえればよかったんだわ。そうすればよかったのよ」
一人でつぶやいて、わたしばかみたい、と遠坂凛はうそぶく。最後にランサーが見た柱の傷を見て、本当、馬鹿ばっかりだわとつづける。
それはおそらくアーチャーの爪跡だ。魔力がうっすらと刻まれている、残り香のように。
なつかしいそれをしばらく見つめて、遠坂凛はため息をついた。
「嫌だわ」
感傷に浸るだなんて遠坂凛らしくない。これから衛宮士郎、セイバー、間桐桜、ライダー、誰でもいい。そのうちの誰かがここにやってきてランサーの行方を問うはずだ。同じくアーチャーの行方も。
さて、なんと答えようか。
「二人は幸せになりました。……これで、いいかしら?」
冗談を言って軽く笑う。くるりと身をひるがえしてちゃぶ台の方へと向かった。紅茶の一杯でも飲もう。殺人のあとの紅茶。悪くない。
そう、わたしはなにも、悪いことなんか、していない。
足取りも軽く歩いていった遠坂凛は、ちゃぶ台の表面を見て怪訝そうな顔をする。かすかに入ったひび。
検分するかのように眺めて、そこに残った魔力に思い当たった。
「本当……ほんっ、とう、に馬鹿なのね……」
似たもの同士め。
薄情なのはあんたもだわ。
遠坂凛はつぶやくと、用意してあったポットの湯の残量を確かめる。まだまだ残っている。大丈夫だろう。
ああ、と遠坂凛はそこで初めて残念なことに気づいた。


「もう、あいつの淹れた雑な紅茶も、あいつの淹れたわたし好みの紅茶も、飲めないのね」



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