止まったエスカレーターというのはひどく滑稽だ。
「…………」
例えばそれは階段と言えるのかもしれないけれど、やはり日頃の姿を想起すればそうとは思えないのだ。
「よお」
夜風に紛れるようにして、しかしはっきりと男の声が主張する。
見ればそこには青い影。
「夜の散歩かい。人柄に似合わず風流なこって」
「勝手に決め付けるのは止めてもらおうか。散策する暇など私にはないよ」
偵察だ、と。
網にかかったのはおまえだと、言外に口にする。
「オレが獲物か?」
おまえの?と男は口にして冗談、と肩をそびやかせる。
「そいつはこっちの台詞だ」
「!」
跳ばれていた。
手首を掴まれて、まるでへたくそなダンスのように位置を入れ替えさせられて背を地につけられる。「く、」呻いて立ち上がろうとしたが、喉元には赤い魔槍が突き付けられていた。
「チェックメイトだ」
寒々と男が笑う。その瞳の赤さに息を呑んで――――死、を。
「なんてな」
打って変わって無邪気に男は笑った。その変わり身の早さに思わず言葉を失う。
だから気付かなかった。
「なぁ?」
絡め取るような声。
「おまえが背に敷いている階段は、一体どこまで続いてるんだろうな」
階段――――階段。
振り返る。ろうとするが顎を捉えられた。正面から見据えられる。赤い目。目。目。
「まるで奈落まで――――続いてるような深い階段じゃねえか、なあ」
旧友に語り掛けるように。
顎を捉えるのとは逆の手がふわりと持ち上げられる。
「どれだけ」
その指先が何か奇怪な紋様を描いて。
「どれだけ、耐えられるかな。おまえは」
ばちり、と。
火花がほとばしる、音がした。
ごうんごうんごうん――――鈍い音を立てて深い奈落へと続く階段、エスカレーターが動きだす。それに小さく動揺し、目の前の男へ視線を投げる。
「この階段が仕舞いまで辿り着く前におまえが音を上げればオレの勝ち。耐えられたらおまえの勝ちだ」
先程刻まれたのは雷のルーンなのだろう。ばちばちとそこらじゅうで弾ける音がする。
「ッ」
白い指が体を撫で上げてきて、声を上げさせようとする。唇を噛んで堪える、まだまだ階段の終わりは見えない。
仕舞いまで耐えられたら勝ち?音を上げたら負け?馬鹿げている。こんなこと、勝負の一端にもならない。
それでも男は仕掛けてくるのだ。白い指で。白い白い白い白い指で。
引きちぎったとしても血の一滴すらこぼれださないような芸術めいた指で、体を撫で上げてくるのだ。
ごうんごうんごうん――――階段が稼動する。
先は見えない。闇で見えない。沈んでいく。静んでいく。音ばかりがうるさい。
ごうっ、と風が吹いた。強い風が。途端くくられた青い髪が舞い上げられて目線を奪われた。裂けるように笑う口元、覗くのは犬歯。
牙。
いっそ喉元に喰らい付いて生命活動を止めてくれたら楽なのに。
なのに、どうして下手に生かすような真似をするのか。
生かして、嬲るような。
「ッ、は、」
際どいところを指が辿る。焦燥感が騒ぐ。うるさい。うるさいうるさいうるさい。
闇の終わりが見えない。光の始まりがわからない。
どこからやってきて、
どこへ行くのか。
もう、全然わからない。
ぽかんと中空にいる。機械仕掛けで動く無限の階段、その中途に男と共にいる。
理性が喚く。野性が金切り声を上げる。喧嘩をするな、そんな場合じゃない。
今は手を取り合って目の前の男に対抗しろ。でないと本当にどうにかなってしまう。
「ん、んんっ」
喉を反らせて喘ぐ。拳を握り締めて、声を上げないように。
音を上げれば自分の勝ちだと男は言ったけれど、一体どうすれば音を上げたことになるのだろう。
屈したら?精神的に?肉体的に?全面的に?
ああ、終わりが全然見えない。
「なぁ、」
どうだよ、と男が問いかけるように笑う。機械仕掛けの階段の終わりは一向に見えやしなかった。



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