その狗は教会からやってくる。もう「狗じゃねえ」と吠える力もない。ぐったりとくたびれて、舌を出してはっはっと息をしている。
私はそれを見てとても哀れになってしまった。前見た狗は、ひどく元気で溌溂としていたのに。
「ちょっとアーチャー、飼えないわよ」
「……凛、第一声がそれか」
「あんた自分の顔見てみなさいよ。まるでほしがりな小学生みたいだわ。ふん、それでわたしが意地悪なおばさんってとこ」
そんなことは思ってもみなかったが。
家に上げるだけはいいだろうと思って、軽食と紅茶を与えた。狗は素晴らしい食欲でそれを平らげ尻尾を振る。
激辛や激甘にはもうこりごりだ。かと思うとそう言ってしょんぼりとうなだれてみせた。
ふむ、と私は思う。そうしてそれを実行に移した。
「わたし明日から衛宮くんちに泊まろうと思うの」
「何故だね? 凛。あの小僧のところに行く必要など、」
言いかけて睨まれた。その少女とは思えない眼力にやや後ずさる。
「うるさいのよ」
彼女はそう言った。気のせいか、目の下に隈が出来ているようだ。
「夜中に、どったんばったん。いいアーチャー、あれは大型犬。室内犬じゃないの。部屋の中にかくまうなんて無理に決まってるんだから」
「……気づいていたのかね」
「気づかないでか」
ふん、と鼻を鳴らすと彼女は紅茶を飲む。くいーっと一気に飲んで、ソーサーの上にカップを置いた。
「あんた、そんな趣味あった? 小さいものやかわいいものが好きなのは知ってたわ。だけど、あんな猛犬、全然違うじゃない」
言われてひとりうなずく。そうだ。あれは確かに私よりは多少小さいが、子猫さんのように小さくもふわふわでもない。
「料理まで作ってやって。それで恩返しに魔力補給? なによ、ずいぶん元気じゃない。追いだしなさいよアーチャー。そうすれば、わたし衛宮くんちに行かなくても済むのよ」
「それはそうなのだが」
「そうでしょう? だったら、そうしなさいよ」
「それが出来ないので困っているのだよ、凛」
はあ?
彼女は、理解できないといった顔でそう言った。大変に悪い目つきで私を睨んでいる彼女に平然と視線を返して、思っていることを口にする。
「どうやら情が移ってしまったようでな。今では毎日あれの世話をせんと落ち着かないようになってしまった」
「そんな情、今すぐ捨てなさい。あんなのを甘やかして何になるのよ。お金になる? それとも宝石? それなら大歓迎だけど、そのどっちでもないんでしょ」
「……凛、淑女がそんな損得勘定で動くことはあまり好ましくないと思うが」
「うるっさいわね話を逸らすんじゃないの! とにかく捨ててきなさい! 情と一緒に、あれも! マスター命令よ、アーチャー、聞けないって言うのなら……」
凛が手をかざす。剣呑な雰囲気が辺りに漂い始めたとき、チン♪とほのぼのした音がリビングに響き渡った。
思わず体勢を崩した凛から視線をキッチンに向け、私はそれを思いだす。
「そうだ」
「……なによ」
「あれが、苺パイを食べたいというから」
焼いていたのだった。言いながら私は台所へ向かう。アーチャー!背後から足を踏み鳴らす音と叫び声がしたが、すまないマスターとひとこと告げてそれをかわした。
「なによ、なによ、なによ、苺パイだなんて、なんなのよ、なんのつもり? 食べたいって言ったから作ってやるっていうの? アーチャー、あんた」
苺パイは香ばしく焼けていた。焦げ目を確かめ振り返ると、私は凛に向かって小首をかしげる。
「大たわけよ」
ああもう、とぐしゃぐしゃとせっかく時間をかけて整えた髪をかき乱す。そうして彼女は私を睨んだ。
私は無言で少しそんな彼女を見やりながら、言ってみる。
「食べるかね?」
「食べるか―――――!」
ああもうわたし行く、明日からと言わず今日から衛宮くんちに泊まりに行く!そう言ってひとしきり暴れた凛は、ばたんと乱暴にドアを閉めて出ていった。
衛宮士郎のところなど、行って得することなどないだろうに。


「君もそう思うだろう?」
狗は口端にパイ生地をつけてそうさなあ、と言った。初めてここにやってきたときよりは、だいぶ回復していた。栄養と環境。これさえ整っていれば誰でもまともにすごしていけるはずである。
「オレが言うのもなんだが、おまえオレを甘やかしすぎじゃねえか。一応敵同士だったろう? それをなんでわざわざ拾って、看病の真似事までする」
「甘やかしているつもりなどないのだがな、私は」
「いや、甘やかしてるな」
つきつけられる銀色のフォーク。それにむ、と眉間に皺を刻んだ。行儀が悪い。
「オレから言わせれば、おまえは大たわけだ」
狗は笑う。だから、言われたよ、と軽く返してカップやソーサーを片づけ始めた。
「あん?」
「凛にも。同じことを言われた」
「なんだよ」
嬢ちゃんもわかってるんじゃねえか、と狗は腹を抱えて笑った。その口端にまだパイ生地がついていたから、手を伸ばして取ってやった。
「……んだよ」
「……ついていたから」
「……言えよ」
自分で取る、と照れたように狗は言った。そう言われても自然に手が動いてしまったので仕方がない。
先ほど私の顔につきつけたフォークで最後のひときれを突き刺して、狗は大口でそれを頬張った。もぐもぐと咀嚼する様がなんだかいとけなく、つい笑ってしまった。
「……なんだよ」
「……いや、なんでも」
「……言えよ!」
気になるだろ、と言われても自分でもよくわからない。ち、と狗は舌打ちをした。
そして完食した皿をそのままに、私に向かってのしかかってくる。
「今のところは魔力は必要ないが」
「オレがしてえんだよ。抱きてえんだ、おまえを」
「そうか」
答えると絨毯に頬をうずめた。すると狗は呆れたように、そうかっておまえ、とつぶやく。
「ぜってえ嬢ちゃんの言うことは正しい。おまえは大うつけで、そしてオレを甘やかしすぎだ」


狗はまだ私の部屋にいる。今はベッドで横になって私の髪に触れている。
私は甘やかしているだろうか?死にかけの狗をただ拾ったから、その責任感に追われているだけではないのか?
私はぼんやりと狗を見る。適度に筋肉のついた裸の上半身。
私を抱いた。
彼女は一昨日から衛宮邸に出かけ、しばらく帰ってこないそうだ。
ふと思い当たる。
「思うのだが」
「なんだよ」
「凛は、私が君ばかりにかまうのでふてくされているのではないのだろうか?」
狗は、なんともいえない顔をした。
そして私に言った。


「この、大たわけが」



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