その狗は、泣いていた。御主人様がひどいのだ。最近代替わりしたのだけど、それもひどい。ひどいひどいひどい。
一緒に飼われている子猫は上手くやっているようだけど、狗にはとてもじゃないが無理だ。
だから逃げだした。意表をついて、晴れ渡るある日に。狗は足だけは速い。最速と自負するほどだ。辺りを見回して駆けだす。
最初は逃げだせた幸福に顔を輝かせていた狗だったが、次第にその顔が曇りだす。
御主人様が追いかけてくる気がして。
走る。
走る。
走る。
もうどこを走っているのかわからない。
「―――――っと」
混乱して頭の中がぐちゃぐちゃになったとき、なにかにぶつかった。それは固かった。とても。
そしてがさがさビニール袋の音が一緒に聞こえた。
「ランサー?」
名前を呼ばれて身がすくむ。見つかったかと心臓が凍る。いやだ。もうあそこに戻るのは。
もういやなんだ。
「どうしたんだ一体、地獄を見てきたような顔だ……いや、今も見ているような顔だな」
落ちつけ、と言われて肩に手を置かれた。それは冷たい。けれど、安心できる手だった。
そうして、目の前にいたのが一体誰かに気づいた。
「アーチャー」
そのとたん安堵で狗はくたくたとその場にへたりこんでいた。情けないと思うけど、限界だったのだ。
アーチャー、は怪訝そうな顔でうなだれた狗を見た。


「美味いか?」
「おう」
「それはよかった」
公園のベンチに並んでふたり。狗は途中で買ってもらった大判焼きを頬張っていた。
「餡子がついているぞ」
仕方のない奴だ、なんて言いながらアーチャーは狗の口元を拭う。そのごく自然なやさしさにぐっときた。
久しぶりのやさしさだったから。
「おい……!」
アーチャーが驚いたように目を丸くする。そりゃそうだろう、突然むしゃぶりつかれればそうなる。
アーチャーはしばらく沈黙していたが、肩口に顔を埋めて離れない狗の背をぽんぽんと軽く叩いた。
それから子供にするようにさする。
そして。
「―――――!?」
ぱん、と。
無理矢理引きはがした狗の頬を打った。あくまで軽く、だが。
「君はそれでも英雄か? 辛いことがあったなら話くらいは聞いてやる。だから、みっともない姿は見せるな」
その言葉に何故か心が静まるのがわかる。しん、と穏やかになっていく。
狗は切々と事情を語り始めた。


「ふむ」
アーチャーはすべてを聞き終えると顎に手を当てた。そうしてしばらく考えこむ。
「つまり、今のマスターに酷使されて疲れ果てたと」
狗はうなだれたままうなずく。
すべてを話した狗はぐったりしていた。話すだけで再度体験したように疲れてしまったのだ。
「改善は望めないのか?」
「あの女にゃ言葉は通じねえよ」
サーヴァントよりもよっぽど異質だ、と狗はつぶやく。
ふむ、とアーチャーはもう一度言った。
「ならば―――――」
うちにくるかね?
「え?」
今、アーチャーはなんと言ったのだろう。
「凛も最初は反発するだろうが、なに。心の底から意地の悪いマスターでもない。ちゃんと対価を支払えば保護してくれるだろうよ」
ただ、いつかきちんと決着はつけなければならんがな?
それは先延ばしにしてもかまわんだろう、とアーチャーは言った。
狗はぽかんとして。
不思議そうな顔をしたアーチャーをじいっと見つめる。
「……不満だったか?」
そうなるとまた違う手を考えなければ、と考えるその体に、抱きついて尾を振った。
「そんなにうれしいのかね?」
そうアーチャーが聞いてくるから、狗は満面の笑みで答えた。
「おうっ!」
うれしかった。
自分を受け入れて、考えてくれたアーチャーの存在が。
「なあ、オレおまえが好きみてえだ」
アーチャーは刹那、瞠目したが。
ふ、と笑って言った。


「知っていたよ」



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