「愛の逃避行って、憧れない?」
幼い姉は突然そうつぶやいた。とっさにテレビか何かに影響されたのだろうかと思って見てみたが、画面は華やかな春を映しだすだけ。愛だの恋だの駆け引きロマンス、そういったものはいっさい目には飛びこんでこなかった。
「ねえ、憧れない? シロウ」
けれど姉はなおも重ねてたずねてくる。仕方ないので少し悩み……たとえば、と口にした。
「そうね。いろいろあるけれど、やっぱり定番は恋路を反対されてふたりで逃げだす、とかかしら。普通の車やスポーツカーなんかじゃないのよ。オープンカーか、ベンツじゃなきゃ駄目。逃げ疲れたら天井の窓を開いて星空を眺めながら、あらためてふたりで愛を確かめあうの」
隠れてキスをしたりね。
幼い姉は、そんなことを言う。イリヤスフィール。だからそう呼んだ。
「私たちは」
「血は、つながってないのよ?」
先読みされていたような反応に思わず眉を寄せてしまう。それだから禁忌ではないのだと。
そう、手を回されていたのに困り果ててしまって沈黙すると、幼い姉はふとぱあっと顔を明るくして首をかしげて笑った。
「うそよ」
無理強いなんてしないわ。かわいいシロウ。
その言葉にまたも沈黙した。
「…………」
「あら、なあに? その顔」
「……君の城で。過去に大変な無理強いを、されたような気がするのだが」
すると幼い姉はあっけらかんと
「きょうだいのスキンシップじゃない」
「…………」
ああいえばこういう。
こういうのは普通、年下に言う言葉ではないだろうか。
「それは冗談として―――――」
冗談だったのだろうか。本気かそうでないのか判別つかぬ口調で言った幼い姉は唇に指先を当てながら、
「シロウは車で逃げるのは、いや?」
「いや……方法どうこうではなくて、だな」
「なら、リズに頼む?」
あの子なら力持ちだから。さらりと言われた言葉に思わず固まった。大斧―――――ハルバードを軽々と振り回す彼女は確かに豪腕だ。けれど。
「シロウを担ぎ上げて運ぶくらいおちゃのこさいさいだと思うのよ。セラには、無理だけどね」
「……イリ」
妙齢のメイドに担がれて運ぶ自分を想像する。……痛い。なんというか。どことは具体的には言えないが、痛いものは痛いのである。
「ああ!」
言いかねていると、姉がぱん、と手を叩いた。そうして言う。
「バーサーカーがいたじゃない」
「……………………」
勘弁してくれ、姉さん。
思わず口調が素に戻った。
「バーサーカーは強いのよ」
「いや知っているが」
「バーサーカーは無敵なんだから」
「だから知って」
「邪魔者なんて、跳ね飛ばして、踏みつけて、ぐちゃぐちゃの、どろどろの、ぺったんこの、道端の蛙の死体みたいに」
青い狗だとか金ピカだとかね?
道を外れまくった神父もいたわね、と指折り数える姉にすがりついてしまいたくなってしまう。頼むから。頼むから姉さん。
だがその前に幼い姉はまたも唇に指先を当てて、拗ねたようにああとつぶやいた。
「だけど駄目だわ。いくらわたしのバーサーカーでも連れていけない。愛の逃避行は、ふたりっきりでするものなんだから」
問題は……そこでは、ない。
「ごめんねシロウ。やっぱり車で行くしかないわ」
「……だから、姉さん。そもそもオレは車を運転なんて」
「なに言ってるの? わたしが、するのよ?」
ああ。
ああ、そうだった。
そういえばそうだった。
そういえばそうだった!
「よし、それなら今からすぐ行きましょシロウ! 車なんてトロトロしたものに乗ってたら邪魔者に追いつかれちゃう。一刻も早く出発しなくっちゃ、ほら早く、立って立って立って!」
「イリヤスフィ……イリ、ャ、イ、…………姉さんっ!!」


色づいた花弁が散る。どたばたとすったもんだを繰り返している内に外から戻ってきたセイバーとその件で小一時間ほど話しこみ(ちなみに姉は横でふくれていた。そっぽを向いて)やはり、その―――――母と娘は似るのだと。しみじみ感想を抱いたのは、決して間違いなんかじゃない。



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