男の胸に衝撃が走った。男の胸は鋭い刃で貫かれていた。
その鋼のまなざしの前には、痛いほど真摯な琥珀のまなざしがあった。まるで。強く焼きつけるような。
恋や愛などではない。手を繋ぐ。唇を触れ合わせる。体を交わらせる。
そんな甘ったるい感情などその場にはかけらもあるべくはなかったが、確かに男は、自らの胸を貫いた少年に―――――。


泣き顔に似た表情を浮かべる少女はかわいらしかった。永遠に置いていくのが惜しいと思わせるほどに。
凛、と男は少女の名を呼んだ。そして困ったように笑い懇願するようにつぶやく。
泣かないでくれと。
彼女は過去でも未来でも男にとって心の支えであった。そして、おそらくは現代でも。
この少女がいるのなら、少年はきっと。
男は思う。盲目の人生を過ごしその末に果てた自分。信じて生きていた。たとえ裏切られたとしても後悔はなかった。
なかったはずだった。
だというのに。
男は笑う。
少年に貫かれた胸が、いたい。
人の身ならざる存在となってからも後悔はしていなかった。けれど繰り返される地獄にやがては変わり果て、妄執に取り憑かれて理想を憎むようになった。愚かなことだ。誰も強制などしなかったし、半ば死にあった男を生かせてくれたのはその理想だったというのに。


がんじがらめじゃない、とかつて少女は言った。そんなんじゃあんたはしあわせになれない。
けれど。そこから、解き放ってくれたのは。


少女は驚いた顔をした。泣きそうだった顔がぽかんと呆気に取られたものになり、次いで笑顔に変わる。
あんた―――――少女は言った。
あんた、それじゃあまるで。


「まるで、呪いから解き放たれたお姫様かなにかだわ」

あかいあくま。
揶揄するような口調、だがしかし晴れやかでまぶしい顔をして、彼女はそう言った。
今度はこちらが呆気に取られる。ぽかんとして―――――そうして、先程の少女のように、笑った。
いやはや、まったく。
悪い冗談にも、程がある。

「あのような情けない王子など、いるものか」


つぶやいた体が消えていく。そろそろ、幕が下りる時間のようだ。
少女はもう悲しんではいない。「あのとき」のように笑って男を見ている。男ももう嘆いてはいない。「あのとき」のように笑って少女を見ている。


「それじゃあね。……しあわせに、なりなさい」
「……ああ」


世を、己を、すべてを呪い、消し去ってしまうため剣を取った姫君。
それに敢然と立ち向かい、しかし圧倒的な力の差に満身創痍となったがけして屈しなかった王子。
永久とも言えるあいだ姫君が囚われていた呪いを解いたのは愛の言葉でも甘いくちづけでもない。
ただ、見ていられないほどまっすぐで不器用な魂の叫びだった。


男は静かに消えていく。すでに、その身の半分ほどは朝焼けに溶けていた。
少年は限界を超えた戦いに精根尽き果てたのか遥か遠くで意識を失っていて、これまで交わされていた一切を知らない。
だが、それでいいと男は思った。
男は消えていく。あと数秒ももたないだろう。だが、それでいい。


こんな顔を奴に見られたら。


「まったく―――――」
髪を掻き乱す指も、顔を覆う手もとうにない。あるのは、ただ。
「         」
ささやいた声を最後に男の姿は光の粒となって消えた。淡くやわらかな、安らぎに満ちたあたたかな光。


こうして、物語は終わりを告げた。
完全に下りた幕はビロードのように艶やかで、遠い以前信じられないほどの血に濡れていたとはとても思えなかった。
そう、姫君が手にかけた者の血と、姫君自身が流した血に塗れていたとはとても。



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