それは夜にはじまる。
「……う、う」
隣の布団のふくらみが蠢いて、何かを耐えるような声が漏れる。引き絞るように。長く、長く長く。尾を引いて。
暗闇の中で目を開いて確認する。辺りはまだ闇だ。しんと静まり返って落とした音は永遠に見つからなさそうな深い闇。ずるりと。
粘液をこぼして胎動しながら、いっぱいある足を使って、ひたひたと確実に、ゆっくりと、だけど確実に、迫ってくる。
暗闇の中で上半身を起こした。
「…………っあ、」
汗が褐色の肌を徐々に湿らせていく。
わなないて声を上げ続ける様を眺めた。ゆるやかに体を動かせてその肩に触れる。解いたままの髪が揺れた。
投げこまれた水中で人の手を発見した子供の手が、助けを求めて伸ばされる。目を細めてさせたいように。
ぐっ、と、肩を掴んでくる男の手。無数の剣を作りだす担い手の。普段はからかいの的となるくらい冷たいそれが、まるで炉に入れられ熱せられたかのようにあつい。溶けて融解していく温度。熱せられた鋼のおもて、けれど決して最中には開くことはない。
ただ自分の内を見つめて、閉じられたままでいる。
ひゅっと掠れて雑音の混じった息が喘ぐ口から発せられる。上下する胸元。すかさず飛びかかって捕らえるように抱きしめた。
その瞬間にそれははじまる。
「あ、あ、あ、あ」
それはゆるやかに壊れていく前触れだった。懸命に築き上げた堤防が崩れて、打ち寄せる波にめちゃくちゃにされてほどけていく。引きつって熱を持った体が震える。繰り返されるのはエンドロールで、ところどころ飛び飛びのモノクロフィルムは乱雑にぶち切られてまた振りだしへ。
きれいな酸素を求めて喉が何度も叫ぶけれど、与えられないのに癇癪を起こしたように唸り声が漏れた。
「―――――ッ!」
食いこむ爪に眉を寄せても離さない。情事の最中の終わりに似た、耐える顔つきでやりすごして抱きしめ続ける。
うわごとを繰り返す口は名前を決して呼ばないけれど、それでも。
逃げだそうと、濡れた鍛えられた腕は何度も目論んだ。それでも、離さなかった。
子供は、
男は火の海にいる。
真っ赤で真っ赤に真っ赤になった海の沖で、ぽつんとひとり途方に暮れて泣いていた。足元を火が舐めるのを、爪先を血が染めるのを、ひとりで見ているしかなかった。泣いてもどうにもならないことはわかっていたけど泣いていた。それしかすることがないからひとりで泣いていた。気の遠くなる時間をずっとひとりでいた。だから手を取るのが怖くなった。いつしか皮肉な物言いと笑みを覚えた。だけど本当は誰かに傍にいてほしかった。歩いて歩いてふと振り返った後ろにはもう誰もいなかった。呆然として立ち尽くすその端から辿った道が消えていって、闇に沈んで、砕けて、溶けて、みんな一緒になるのに自分だけは一緒になれずにひとりでいることに絶望して、そこでやっとあきらめることを覚えた。


「……馬鹿な奴だ、本当に」
不機嫌そうなつぶやきが漏れる。
ようやっと手の届いた結論をまた一から探す羽目になった男は、普段の仮面などかなぐり捨てて腕の中で泣いている。
熱に浮かされて迷いでてきた子供が今夜もまたひとり。わけもわからず泣きわめいている。
舌打ちをして、縋る体をきつく抱きしめた。自分より大きいだとかがたいもいいだとかそんなことはどうでもいい。目の前の子供はひたすらに泣いていた。火の中で、繰り返される夢と破滅の中で数えきれない道を選んでそれでも結局は決まった終わりに辿りついた瞬間にまたやり直し。
本当に馬鹿だ!わかっていて好きになった自分が物好きだと噛みしめて火がついたように泣く体を抱きしめ続ける。
燃え尽きていく腕の中の子供。
「わかんねえだろうが。言わなきゃよ」


子供は火の海でひとり。
寄せては返す波の音をぼんやりと聞いている。
擦りきれた膝と心を抱えて、うつろな目で宙を見て。泣くことももうない。忘れてしまったからだ。
泣くことも笑うこともすべて。擦りきれてくたびれて燃え上がった果てにすべて。
肌は焼けて色を変え、瞳すら焦げて白く濁り固まった。
助けを呼ぶこともない。もう子供は大人になったから。
助けに行くのは大人の仕事だ。世の中のすべての人々を救う。石を投げつけられようと罵られようと、立ち上がって立ち向かうのだ。
だって彼は正義の味方。


頑張って!


延々とこだまする。
頭を抱えて崩れ落ちる。何もわからなくなった。足の先からゆっくりと消えていく。おそるおそる見てみたらまるで、熟れて弾けた実のようだった。
こんなにもなっているなんて知らなかった。
痛くなかった。どこも痛くなかった。今も痛くない。
それなのに、胸を刺し貫く冷たい感触にぞっとする。的確に穿たれた死のしるし。
命がこぼれ落ちていく。
二度と取り返せない。何度死んで生き返ったとしても。
しるしは、すでに、つけられてしまったのだから。


青い影と赤い瞳。


「―――――、わ、あっ! …………あ、あ、あ、ああああ、ああああっ! わあああああ、ああああ、あああああ、…………っ、!!」
泣き濡れた、普段は低い声が甲高く乱れて裏返り、叫んでいる。
闇の中には男がふたり。白い肌の長い髪の男が褐色の肌の短い髪の男を抱きしめている。
どちらも表情は辛そうだ。特に褐色の肌の男など、死に直面したかのようにみっともなく喚き、縋りついている。その苦悶に歪んだ顔を汗や涙が汚して、二目と見られない様にするだろう。
長い髪の男は傍らの慟哭を聞きながら嵐が立ち去るのを待つ。そうするしかない。過去に飛んで助けに行くことは出来ない。だから。
泣き続ける男はずっとひとり。抱いていてくれる腕を知らないで、がたがたと吹きつける風に揺らされる窓枠のように震え、軋み、叫び続ける。
夜が明けるまでそれは続く。嵐が過ぎ去りふたたび眠りに落ちるまで、繰り返しずっとそうしている。
火の中の子供。



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