まるで砂糖菓子のようなその少女は椅子に座って足をぶらぶらさせながら鼻歌を歌っている。
小柄な体のせいで床に足が届いていないのが、また微笑ましかった。きっと子供好きならずとも見れば心を和ませる光景だろう。
「青メイド黒メイド赤メイド♪」
「突然に不穏な鼻歌だな、イリヤスフィール」
アーチャーは半眼でイリヤスフィールと呼んだ、通称イリヤ嬢をねめつける。生まれも育ちも豪華なイリヤ嬢はまったくそれを気にせず、目を閉じて本当に楽しそうに続きを口にした。
「メイドぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ合わせてぴょこぴょこ六ぴょこぴょこ♪」
「だからさっきから何故メイドメイドと連発するのだね……私の方を見ながら」
しかも思い切り日本語だ。そう言われたイリヤ嬢、ああ、イリヤでいいと彼女自身が告げた。では、イリヤだ。
イリヤは目を開けて首をかしげると、たずねる。
「ドイツ語の方がよかったかしら?」
「いや、そういう問題ではなくだね」
「Auf dem Rasen rasen Hasen, atmen rasselnd durch die Nasen.」
「…………なんという意味かな」
「あなたをイメージしたの」
「私を?」
「リズ!」
「うん、イリヤ」
突然アーチャーの背後に現れるメイド。言動がトンチカンな方だ。付け加えて言うなら、黒メイド。
リーゼリット、通称リズはイリヤがつぶやいたのと同じ歌のようなものをぼそぼそと繰り返すと、頭の上で手をぴょこんと上げて小さくつぶやいた。
「うさぎ」
「は?」
「芝生の上をうさぎが走る、鼻でふーふー息をしている」
「……何故それが私になるのだね」
「必死に逃げ回ってる往生際の悪いところ!」
「…………」
くずおれた。
「あれ? シロウ? おーい、シロウ、シロウってばー?」
「……私をその名前で呼ばないでくれたまえ」
「あ、いじけた。もう、シロウってばかわいいなあ!」
「―――――ッ」
楽しそうに叫ぶが早いか、ドイツのお嬢さまはためらいもなく飛んできた。羽根のように軽いのだが衝撃は一人前だ。
呻きつつも慌てて受け止めるとふうっと耳元に吐息。
「Blaukraut bleibt Blaukraut und Brautkleid bleibt Brautkleid. Brautkleid bleibt Brautkleid und Blaukraut bleibt Blaukraut.」
「なに?」
「シロウはシロウってこと!」
わーい、と歓声を上げたイリヤに正面から抱きつかれて、アーチャーは目を白黒させた。リズは首をかしげてつぶやく。
「イリヤ、用意する?」
「何をだね」
「花嫁衣裳」
「何故だ!」
「そういう意味」
「あ、それもいいかも。ハッピーサマーウェディング!」
「こ、古代の歌を……!」
「え、だってシロウ、好きでしょ。釣り。背は全然高いけど。あーでもキリツグ、許してくれるかしら。いくら血がつながってないとはいえ、娘と息子の結婚だなんて」
難易度の高い恋愛よね、と嘆息したイリヤに、アーチャーは言い返す言葉をしばし失う。眉間を指先で揉んで……ふう、と己を落ち着かせるようにやはり嘆息した。
こういうところが姉弟である。
「イリヤスフィ」
「それで、イリヤ。花嫁衣裳は一着? 二着?」
「二着がいいかな。わたしとシロウ、おそろいで着るの!」
「イリヤスフィール!」
わ、と指で耳栓をするイリヤとリズ。愛らしい顔を不機嫌そうに歪めてなあに、とつぶやく。アーチャーは未だイリヤを抱えたままで、彼女に向かって懇々と説教を始める。どう見ても兄妹、もしくは親子です。ありがとうございました。だが真実は無情にも逆なのだった。
「もう……シロウったらわがままばっかり! メイドも嫌って言うし、お姉ちゃんになるのも嫌って言うし!」
「当たり前だろう! あ……兄としてならばいい。だが、姉だのメイドだの、何故女性の象徴ばかり私に押しつけようとする! せめて衛宮士郎にしておけ、奴なら小柄だし問題もないだろう」
「シロウ? シロウもいいけど……わたしはあなたがいいわ、わたしのシロウ」
わたしだけのシロウ、と蟲惑的に笑む。アーチャーは息を呑んだ。
「イ、リヤ」
「あ、やっとそう呼んでくれた。イリヤスフィールだなんて他人行儀だものね。……なんならお姉ちゃんて呼んでもいいのよ」
「束縛を解かないか、イリヤ」
「わたしなにもしてないわ。シロウが勝手にひとりで縛られてるだけよ。好きだものねシロウ? そういうの」
「……ッ」
そっと指先を伸ばすと、イリヤはアーチャーの喉元に触れた。無防備な喉仏に第一関節を当ててくいとのけぞらせる。それが苦しいのか、アーチャーは軽く呻いた。汗がひとすじ流れ落ち、片方の目元を歪ませる。掠れた声でささやくようにたしなめた。
イリヤ、と。
「イリヤ……!」
「ふふ、かわいいの。いい、離してほしかったらおねえちゃんの言うことを聞きなさい。三つのうちからどれかを選ぶの。四番目の答えなんてないわよ」
「選ぶ……?」
「そう」
しばらく猫にするようにごろごろ、と喉仏をくすぐってから、えへん、とイリヤは薄い胸を張った。
嫌な予感。
これ以上ないくらい嫌な状態だったが、地獄は数えきれないほど存在するものだ。


「メイドと花嫁とお姉ちゃんとどれがいい?」
「またそこに戻るのかあああ!」
「基本基本。しょぎょうむじょう」
うむうむとうなずくリズ。絶叫したとたん呪縛が解けたのか、アーチャーはじたばたと暴れてイリヤを膝の上から振り落とそうとする。だが当のイリヤはまるで遊園地の遊具かロデオボーイに乗っているかのようにきゃあきゃあとはしゃいでいる。
アーチャーの立派な太腿に手をついて、実に絶妙にバランスを取っていた。
さすがイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。猫のようにきまぐれでわがままだ。しかし、彼女自身は猫が嫌いであるのだが。
だからだろうか?猫と評されることが多い(誰にとは言わない)アーチャーを、うさぎだなどと評するのは。
「Auf dem Rasen rasen Hasen, atmen rasselnd durch die Nasen. わたしのかわいいかわいいうさぎさん、無駄な抵抗はあきらめて、いさぎよくわたしに捕まりなさい!」
「誰がうさぎよくっ……」
噛んだ。
まじまじと見つめるイリヤから真っ赤になって目線をそらし、舌打ちをしてアーチャーは言い直す。
「い、潔くできるものか!」
「うさぎよく」
「繰り返すな!」
「うさぎよくって言った?」
「聞いていただろう!」
もう半分涙目だ。恥ずかしい。座に帰りたくなるほど恥ずかしい。ほとんど涙声になりながらアーチャーは叫んだ。どうもこの幼い姉を相手にすると昔に戻ってしまい、感情の振れも激しくなるしみっともない失態もおかしてしまう。
「衛宮士郎だ! 衛宮士郎を相手にしたまえ! 先程も言ったが、奴なら小柄だし童顔だ、メイド服だろうと花嫁衣裳だろうと姉だろうと大いに似合うだろう!」
それは墓穴を掘っているのと同じことだったが、とりあえず今は別個の存在であるのでいいらしい。
必死になって過去の自分に災厄をなすりつけるアーチャーを見て、むう、とイリヤはうなった。
「だめよ、シロウはわたしの奴隷でお婿さんでお兄ちゃんだもの。だからシロウがメイドで花嫁でお姉ちゃんになってくれなくちゃ」
「なんでさ!?」
「だって、そうしてくれるようにもう頼んであるもの。呼んであるの」
手紙を出したのよ。
どれかひとつ選びなさい、それとひとりで来なきゃ殺すって。
アーチャーは固まった。錆びたブリキの人形のように扉の方を見る。


隙間から衛宮士郎が覗いていた。
「……………………」
「…………あ」
彼は一瞬、ものすごく申し訳なさそうな顔をした。一歩部屋の中に入る。そしてしばし視線をさまよわせて頭を下げる。
「悪かった」
「死ね! 死ね! 死ね! 殺す! いますぐこの手で殺してやる!」
もう完全にアーチャーは泣いていた。
「あら、早かったのねシロウ。いつから来てたの?」
「……えっと。アーチャーがいじけてた辺りから」
「なんだ、声かけてくれればよかったのに! どうして黙ってたの?」
「どうしてって……」
「我が身かわいさに決まっている! 死ね! いいから死ね!」
「ちょっとシロウ! あんまり汚い言葉遣いするものじゃないわ! それにシロウはわたしが殺すんだから!」
メイド修行と花嫁修業が必要ね、と言ったイリヤにアーチャーがこの世の終わりのような顔をする。それにはさすがに衛宮士郎も慌てた。
「イ、イリヤ、やめろよ! かわいそうだろ!?」
「おまえにかわいそうと言われるくらいならば舌を噛んで死ぬ! オレとおまえの両方のだ!」
「あら情熱的ねシロウ? そんなキスならわたしにもしてくれないかしら」
ちゅっと音を立ててイリヤはアーチャーの唇の真横にキスをした。ふたりのエミヤシロウが固まる。
「ふふ」
「……………………」
「奪っちゃった!」
「衛宮士郎おおお!」
「なんでさ!?」
なんで俺さ!
絶叫する衛宮士郎に、いつのまにか夫婦剣を投影したアーチャーが殺気をバリバリに放って歩み寄っていく。そこで、扉が開いた。
ごん、といい音がして、後頭部を強打した衛宮士郎は声にならない声を上げて座りこんだ。その後ろでぼうっと立っているのは、リズだ。いつのまに部屋から出ていったのだろう。
「だいじょう、ぶ?」
「頭っ! あたま……俺の頭……!」
「平気。割れてない。おまじないすればもっと平気。いたいのいたいのとんでいけー」
こぶに思いきり手を当てて“おまじない”するリズの呑気な声と衛宮士郎の切実な悲鳴。あっけに取られたアーチャーは、リズが抱えていた衣装の山を見て目を見開いた。
「あ、イリヤ。衣装、用意した。セラの見立て。サイズもぴったりと思う」
「さすがセラ、仕事が速いわね。見せてくれる?」
「ん」
地獄の扉が開いた。
アーチャーは、エミヤは地獄を見た。過去、様々な死線をくぐり抜けてきたがきっとこれほどの地獄はない。
「どう?」
アインツベルン城のメイド、セラとリズたちが揃いで着ているメイド服の、青と黒の部分が赤のそれ。
ふんわりと甘ったるく、それでいてやたらと豪奢な花嫁衣裳。
いい仕事しています。
「さすがセラ!」
もうおうちかえる。
膝を抱えて泣き出したエミヤシロウをおろおろと衛宮士郎は見やる。触っていいのか何十秒か迷って、そっと、その肩に触れた。
「イ……イリヤ、やめてやれって! かわいそうだろ!?」
「どうして? お姉ちゃんはシロウたちをこんなに愛してるのに」
「もっとまともに愛してくれよ!」
まったくだ。
だけどおまえには言われたくない。
ばっさり殺してしまいたかったけれどその気力もなく、エミヤシロウは声を上げて衛宮士郎の腕の中で泣いた。
弟は、姉には勝てない。



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