その日は風が強かった。
冷たく、肌を刺すような風が吹いていた。
聖骸布がはためく。崩れそうになる髪を手で押さえ、弓兵はビルの明かりを眺めていた。
「―――――何の用かな」
かつん。
足音にも振り向かない。ただ、背を向けたまま問いかける。
返事はなかった。
それは発せられる尋常ではない気配からも察することが出来た。
まるで。
まるで、けだものだ。
今はおとなしく首に縄をつけられているが、いつ飛びかかってくるかわからない。そんな存在。
厄介なものに出会った、と嘆息して振り返ろうとする。
すると、視界の端。月明かりの下でそれは朗らかに笑っていた。
「……よお。いい夜だな、弓兵」
その笑みに毒気を抜かれたように弓兵は一瞬動きを止めた。ざあ、と風が吹き、青い髪を流していく。
旧知の友に会ったかのようにそれは言った。
「どうした。人の面見るなりそんな態度たあ、ずいぶん失礼じゃないか」
「―――――」
弓兵は後ずさる。背中にフェンスを背負って。
それは朗らかに笑っていた、害がないといった風に笑っていた。
けれど。
それは、明らかにうつろで、酩酊しているかのように、目の焦点が合っていなかった。
「なあ」
かつん。
「なあ、おい」
かつん。
「……なあ」
それは、首をかくんとかしげた。そうしてあくまでも朗らかに笑ったまま、
「―――――!」
跳んだ。
けたたましい金属音。錆びたフェンスに叩きつけられた弓兵は、かは、と肺から空気を吐きだした。掴まれた首は今にも握りつぶされそうに締めつけられている。衝撃と衝動に片目をすがめ、睨みつけたそれの顔は月明かりに照らされ、奇妙な陰影が刻まれていた。
背筋を戦慄が駆け抜ける。
「弓兵よ」
それは、声に愉悦を滲ませもせず、喜悦の表情も浮かべもせず、ただ朗らかに笑ったまま言った。
「おまえ……美味そうだなあ」
なんでもないような、口調だった。
けれど行動は劇的で、締めつけられていた首が解放されたかと思った刹那、爪を立てられてフェンスに縫い止められていた。
罵声を吐いてその腹に膝蹴りを入れたが、力は弱まらない。それどころかどんどん強くなり、皮膚を突き破り肉を抉る勢いだ。この、と声にならない声でつぶやき、再度蹴りを見舞おうとした弓兵は叫びを上げる。
熱い、舌が。
濡れて湿った軟体動物のような器官が、概念武装によって守られた首筋に這わされていた。
爪が食いこみ、おそらく血が滲んだであろうそこを舌は執拗に舐め上げる。ぬかるみを踏み荒らすような、屈辱的な感情を湧き上がらせるその音と共に、それの荒い息が弓兵の耳をなぶる。
「……っく、」
異常な状況に精神集中も上手く行かず、投影もままならない。
どこまでもうつろな目が邪魔をする。
そうして。
「あ―――――っ……!」
ついに鋭い犬歯が皮膚を、肉を食い破り、深々と弓兵の体に根を張った。
それは本来、吸血種ではない。だというのに弓兵の首にかぶりつき、牙を立て、血をすすり始めた。
乳飲み子が母の乳房を吸うように音を立てて、すべてを飲み干すように喉を鳴らす。
「あ、ぁっ、あ、う、あっ、」
体から力が抜けていく。単純に魔力を奪い取られていくせいと、奇妙な官能のせいで、だ。
それは一心不乱に血を吸い、ときどきこぼれ落ちる雫を舌で舐め上げる。弓兵の体は冷えていくようで、その実、芯の方は熱を持っている。身を捩るたびがしゃがしゃとフェンスがやかましい音を立て、はしたない喘ぎをかき消した。
それの唇は食むように、本当に弓兵をまるごと咀嚼してそのまま腹の中におさめてしまうかのように穴の開いた箇所を舐めしゃぶった。
漏れる息が、どうにも嬌声にしか聞こえないことに歯噛みする余裕も弓兵にはなかった。意味を成さない声を上げることしか出来ない。
思えばぞっとするくらいみっともないことだったけれど、けれど仕方なかったのだ。
「あ―――――、あ、あ……っ」
けだものの息遣いが遠く聞こえる。何事も遠い。定かではない。
与えられる、感覚だけがすべてだった。
それの喉が鳴る。目の前がくらくらと眩む。それの喉が鳴る。体中を言いようもない快楽が蹂躙する。
いつのまにかそれの肩を掴んでいた手はだらりと下がり、ときどき細かく痙攣するだけになっていた。
月明かりが、とても、まぶしい。
だらしなく開いた口から、涎がひとすじ伝って顎を濡らした。
「…………」
突きだすように腰が震える。知らぬ間に吐精していた。
月明かり。
それの青、赤、白。照らされて、鮮明になるはずなのにぼやけていく。
ゆっくりと舌なめずりをするそれの動作がやけに緩慢に見えたところで、フィルムをぶつりと切るように意識が途切れた。


―――――。
繁華街の喧騒から少し奥まった場所にある路地裏で、その男は立ち尽くしていた。
黒い上下を纏った背にはいやというほど見覚えがあった。
何の用だと、聞く前に振り返ってこちらをじっと見つめてくる。冷徹なはずの鋼色の瞳が、そのときだけは違う色合いに見えた。
たとえば、そうだ―――――。
その男はボタンを外すと、首元をこちらにさらしてくる。
そこには小さな二つの穴が開いていた。
「槍兵」
月明かりも差しこまない饐えた臭いのする路地裏で、その男はそっと、睦言のようにつぶやいた。
「君に―――――」
ざわざわと雑踏の音がやかましい。
だが、その男のつぶやきははっきりと耳に届いた。
目を見張る。
その男は自分の言ったことに間違いなどないといった顔で、じっとこちらを見つめてくるのだった。



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