―――――拘束。
あっけなく束ねられて頭の上で拘束された両腕が痛い。舌打ちをして睨みつけると、男、ランサーは唇を吊り上げて笑った。それは悪魔的な笑みだった。
うっかり見惚れてしまうような。
生憎と自分は、そんなうっかりスキルは持っていなかったけれど。
だから睨みつける。するとランサーは頬にくちづけを落としてきながら、おとなしくしなと子供をあやすように低く、甘い声でささやいた。昼間の無邪気さが嘘みたいだ。だけどどちらもランサーで、嘘だとか策略だとかそういうものは彼の中にはおそらく、ない。いつも策を張り巡らせて己を隠す自分と違って、この男は恥ずかしくなるくらいあからさまだから。
「ランサー……、いい加減、離したまえ!」
「いやだね」
手首を握りしめる指先を少しずらされて、皮膚の薄い箇所にくちづけられた。びくん、と体がこわばる。そこを軽く食んで、舐めて。
ランサーはあくまでも拘束を解こうとしない。
「あのあと嬢ちゃんから聞いたんだがな。オレの故郷に飲んだくれのジャックっていうろくでもない男がいたんだと」
嬢ちゃんとは、遠坂凛のことだ。伝承に詳しい彼女のこと、無邪気な様で問われては知識をふるわずにはいられなかったのだろう。ああ、愚かで聡明な愛しいマスター。そしてうっかりスキル持ちの己の師匠、あかいあくま。
災難はいつでも彼女が持ってくる。
「それがどうしたと……」
「そいつはかなり悪知恵が働いてな。飲み屋で出会った悪魔を上手いこと騙して金に変えて、自分の財布に閉じこめちまったんだと」
「……それでこのありさまかね?」
「まあ、聞けよ。この話にはまだ続きがある」
髪にキス。ぱさついた、何の香りもしない男の髪にくちづけても楽しくないだろうに。そう吐き捨てるように言えばランサーはしつこくくちづけを落として、なんでもないようにさらりと答えた。
そんなことはねえ。すごく美味そうな、香ばしくて甘い匂いがする。
―――――は、と気づいた。
「それは昼間焼いたクッキーの匂いだろう……!」
「ああ? ……ああ、そうかもな」
ランサーはあの後クッキーの型抜きに夢中になって、自分を苦笑させた。本当に子供のように無邪気に楽しそうに鼻の頭に、そこら中に白い粉をつけてやっているものだから、微笑ましくなって。
それがどうして、突然こんなモードになっている?
「必死に出してくれと乞う悪魔に、十年間は自分の魂を取らないと約束させてジャックは悪魔を解放してやった」
「……まさか、このまま十年私はこのままだと?」
「はは、それもいいかもな」
よくない!
軽々と片手で自分の両腕を拘束しているせいで、ランサーが自由に出来るのは右腕と口だけだ。だからこんなにぺらぺらとよく動くのか、とそんな場合ではないのに思う。現在、口を動かすのに忙しいのかだらりと下がった右腕が悪戯のために動いていないのが不幸中の幸いだった。
「それでな、傑作なのはこの続きだ」
唇を舐めて、ランサーは言う。傑作?なにが。この状態がか?
「十年後、ジャックはふたたびその悪魔と出会う。運命の出会いって奴だな。さすがに悪魔の方にも恨みつらみがあったんだろう、すぐさま魂を取ろうとした、だがジャックは言った」
首筋に、くちづけを落として。
「“魂をやるから、あの林檎を食わせてくれ”」
林檎、と言ったときのランサーは、ひどく楽しそうな顔をしていた。
「“あのひときわ真っ赤な艶々と輝く林檎を”」
舐め上げる舌。かっと顔が紅潮するのがわかる。同時に理解するランサーの意図、彼はつまり例えているのだ。自分を。
間の抜けた悪魔と、真っ赤な林檎との両方に。
「悪魔は木に登って林檎を取ろうとした。だがしかし奴が木から下りる前にジャックは木に十字架を刻んで悪魔の身動きを取れなくした」
ぎり、と強まる拘束。顔を歪める。
動けないだろう?と声なくランサーがささやく。
「いざとなったらルーンを刻んで縛っちまおうかと思ったんだがな」
必要がなくて助かるぜ。
そんな言葉に激昂して、目の前で笑う男をきつく睨みつける。
「無理矢理に拘束しておいて、何を言う……!」
「嫌だったら、力ずくで抵抗して逃げりゃいい。出来るだろ?」
「―――――ッ」
確かに、そうだ。筋力の決定的な差はある。けれど本気を出して、そうだ。投影でもすれば簡単に縛から逃れることは出来るはずだ。
だけど、けれど。頭の中で躊躇する声がする。こんなことで貴重な魔力を使っても?騒ぎを起こしてもいいのか?家が壊れでもしたら、衛宮士郎がうるさいだろう。
等々―――――世間一般的には“いいわけ”と称される結論を導きだした自分を見透かすようにランサーはうんうんとうなずいてみせる。
「出来るが、やらねえんだよな」
「な、勝手になにを」
「嫌じゃねえんだろ」
「……な」
思考停止。
あんまりな言い草に、笑う男の実像が一瞬霞む。なにを。だけど、けれど。逡巡する意識。躊躇する声、だがそれは本当にそう思っての?
「ジャックは絶対に自分の魂を取らないと悪魔に約束させて木から下ろしてやるんだが……」
は、と意識が現実に戻ってくる。覚醒。しかしそんなもの、しない方がよかった。
唇に熱いなにかが、ええい、言ってしまえばランサーの唇だ。それが覆いかぶさってきて、なぶるように吸い上げ、舐め上げ、さんざん楽しんだと思われる後で遠ざかっていく。
「オレはそんな約束なんていらねえ。おまえをずっと身動き取れなくして、オレのものにしてやる」
大体、もう死んでいるんだしな、と揶揄するように言って。
ランサーはまた唇を重ねてきた。
好き放題に口内を探る舌に刹那、呆然としてから仕方なく奥に縮こまっていたそれを差しだして答えてやる。濡れた音が夜の部屋に響く。楽しそうに目を細めるランサーの表情は無邪気とも、暴虐とも取れて軽く混乱した。
やがて長いくちづけは終わり、銀糸がふたりの間をつなぐ。熱い息が漏れて、空気が湿って結露するような錯覚を覚えた。
実際にそのように、ぽたり。と一滴の唾液が胸元に落ちてくる。
ぬかるみの雨のように、生温いそれ。
「……生前も、死んでからも私は悪魔に翻弄される運命なのか……」
はあ、とため息をついて自由になった顔を背けると、ランサーは眉を片方だけ器用に跳ね上げて首をかしげる。
「ああ、いい。こちらの話だ」
答えて、それでも納得の行かないようなランサーを見上げて静かに告げる。
「……離してくれないか。腕が痛い」
「離したが最後、逃げるだろうが」
「逃げんよ。あきらめた」
私はとっくに君のものだ。
無理矢理にするから逃げようとするのだぞ、と言えばランサーはむ、と唇を尖らせた。
「そうか」
「そうだ」
「誓うか?」
「誓い?」
「ああ。逃げないと。ずっとオレのものでいると、このオレに誓え」
そうすれば離してやる。
勝手なことを―――――眉間に皺を寄せるが、それはすぐにほどけた。仕方がない。
「誓う。私の存在に懸けて、誓おう。……ランサー?」
そう言うと、ランサーはじっとこちらを見つめてきて。
力を持った視線が痛い、と思い始めたころようやく拘束を解いた。とたんに動いた自分に物騒な表情をするが、それが単に痛んだ手首を擦るだけの動きだとわかったようで、猛犬の面持ちは普段のランサーのそれに戻った。
「さて、ランサー」
伸ばした腕を首に絡めて、赤い瞳を覗きこんでたずねてみる。
「ジャックという男の顛末は? まだ続きがあるのだろう?」
話には軽く興味があったのでそう聞いてみると、ランサーはゆるく首を振って。


「それは、寝物語に聞かせてやるよ」


そう言って、器用に片手だけでこちらの服のボタンを外し始めた。
一瞬ぽかん、として、その勝手な態度に苦笑してしまう。そんな男を選んで、誓ってしまった自分にも。
悪魔は、男に捕らえられ―――――。
さて、話の結末は一体どうなったのか。
寝物語など聞く余裕があるだろうか、と思いながらもはだけられた胸元を探る白い手に、その考えは霧散していった。


「……は、あ……」
“おまえ、それはずるいだろ”
昼間、聞いた声が脳内にこだまする。
ずるいのはどっちだ。
傍若無人に動き回る白い手に喘ぎながら、せめてもの抵抗に子供のように、そんな悪態を内心でついたのだった。



back.