「よーお」
なにみてんだ、と腑抜けきった声が間近に聞こえる。左肩に重み。
乗せた顎をぐりぐりと動かし、ランサーは甘えかかる大型犬のように体を預けてくる。のしり、と重い。あたたかいを通りこして熱い。
この男はどうしてこんなに体温が高いのだろう、と思いながらアーチャーはされるがままに手にした冊子を読んでいる。
「……アルバイト情報誌?」
「ああ、」
怪訝そうな声を上げる背後に向かって語る。
ちょっとアーチャー、話があるの。なんだろうかマスター。あんたの家事の腕は認めてるしすごく助かってるわ、だけどそうやって家に閉じこもってるのもどうかと思うわけよ、わたしとしては。
「嬢ちゃんか」
「凛だ」
つまり彼女は息抜きがてら外に出ろ、と言っているわけだ。それなら散歩だけでもいいのではないかと思うがそこはそれ、あかいあくま。少しでも金銭の匂いがすれば。
目を輝かせずにはいられないわけだ、とアーチャーは平然とつぶやく。ランサーは、あー、と言いながら芝居がかった仕草で目元を押さえた。そして勢いのままアーチャーの体を抱きしめる。
「嬢ちゃんも悪気があるってわけじゃないんだろうがなあ。なんていうか……まあ。かわいそうだな」
おれのこいびと、とやはり芝居がかった様子で言って頭をぐりぐりと撫でてくるランサーの手に少し迷惑そうにしながらもアーチャーはそれを拒絶しない。するとますます調子に乗ったランサーは何故だか歌を歌いだす。でたらめなメロディに即興の歌詞。点数をつけるのなら…………。
落第点?
「ただおまえはある意味箱入りだからな。嬢ちゃんとこでぬくぬく執事やってた身でいきなり外に出るのは勇気がいるんじゃねえの?」
「ぬくぬく執事……」
その言い様はいささか矛盾していないだろうか。それに箱入りとは。
「馬鹿にするな。私は箱入りなどではない、人以上に出来ることもあると自負している。外に放り出されたとしても困ることはないさ」
むっとした様子でけれどランサーの抱擁からは脱せずにアーチャーが返す。するとランサーは何を思ったのか、抱擁の力を強くしてきた。
「駄目だ想像しちまった」
「何をだね」
「おまえが“ひろってください”って箱に入れられて鳴いてる姿」
嬢ちゃんはひでえなあ、と言いながら再び頭を撫でてくる。なんという発想の飛躍だろう、とアーチャーは撫でられつついっそ感心した。
たぶん“外に放り出される”辺りの単語がランサーのイマジンを刺激したのではないだろうかと推理しながらページをめくる。
そういえば。
「ランサー、君のところで新しいバイトを二、三人探していると言っていなかったか? よければ面接だけでも」
受けてみたいのだが、と続けようとしたところで赤い目の束縛に遭う。
「そりゃいくらおまえの頼みでもできねえよ」
「何故?」
「オレは仕事とプライベートは分ける性質だ。仕事先でもおまえに会えちゃ、気になって気になって仕事が手につかねえ」
「それはそれは……」
愛されているのだな私は、と無関心に答えてページをめくれば、おう、と力強い答えが返ってきて抱擁の力がさらに強まる。
さらりと流れてきた青い後ろ髪が頬や手に触れて少しくすぐったい。だけど嫌ではないのでアーチャーは何も言わなかった。初めは戸惑ったものだったけれど。このひとなつこさも、あっけらかんとした様も、好意をさらけだす強さも。
その一方でランサーはとあるところできっぱりと一線を引く部分を持っている。好んだ人間が相手だとしてもだ。
そういうところがアーチャーにとってはうれしくもあり、おそろしくも、ある。
決して口にはしないが。
ランサーの抱擁は絶対の檻ではない。アーチャーが本気で望むならいつでも扉は開け放たれる。
「アーチャー」
ふと頬にやわらかい感触。くちづけられたのだと気づいたときには、さらに抱擁の力は増していた。
「今おまえ、馬鹿なこと考えなかったか」
「いいや」
「そうかあ?」
詰問の口調から一転、とぼけたような声音になってランサーはアーチャーを抱きしめる。もう隙間なんてないというくらい密着した体と体。
「おまえは放っとくと変なこと考えだすからな」
だから放っとけねえんだわ、とつぶやいて髪を梳き、頬にくちづける。まったくもって率直な愛情の示し方。
「手がかかるなら捨て置いておくがいい、その方が君のためだ」
「いやだね」
言ってぎゅうと抱きしめると、ランサーは体を離す。
とたん一気に体が冷えたような感覚に襲われてアーチャーはわずかにうつむく。
と、さかさまのランサーの顔が目前に現われてぎょっとした。
「ほら、言ったそばからそんな顔しやがる」
さかさまの顔が笑う。仕方ねえなあ、と。
「やっぱりおまえは外に出るのは向いてねえよ。“家”の中でおとなしく人の帰りを待ってるのが似合いだ」
そうして待っていてくれる者がいることで安心して帰れる者がいることを語り。
ランサーは顔を引っこめ、背伸びをして大きなあくびをする。
「そんじゃ、オレそろそろ仕事の時間だからよ。行ってくるわ」
「あ―――――」
立ち上がろうとしたアーチャーは、しかし立ち上がって自分が何をしたいのかはわからぬままでいた。それを見たランサーが笑い、その手を掴む。
「見送ってくれよ」
それでいいのか、と気づきアーチャーは素直にその手に導かれるに従う。だが玄関まではわずか、すぐに到達してしまう。
手は離されて。
振り返ったランサーは、犬歯を見せて笑った。
「んじゃ、行ってくるわ」
「…………ああ」
気をつけて行ってくるといい。
そうつぶやいたアーチャーは何か足りない気がして。
出ていこうとしたランサーを呼び止めると、振り返ったその頬にくちづけしていた。
丸く見開かれた赤い瞳。それをまっすぐ見つめて、赤くなっていく顔を感じながら眉を寄せて困ったように笑い、言い放っていた。


「愛する者を見送るときはこうするものだろう?」


ふざけたように、彼にはらしくないその発言にランサーはしばらく瞠目していたが、目を細めると一気に玄関の奥までアーチャーを押しやり。
「ここまで出来りゃもっといい」
そんな言葉と共に、唇を深く奪っていった。



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