不思議な気分になる。
軽くついばむように唇を合わせてくる男は目を閉じていて、赤い瞳の圧迫感が今ではあまりない。それがなんとなく惜しい。
バードキス、というのだろう。こういったキスを。
冷静に考えながら、狗が小鳥のようなキスをしてくるなんて変ではないかと内心で首をかしげていた。
混乱していたのかもしれない。
だから目も閉じられずにぽっかりと開けたままで間近にある端正な男の顔を見ていたのだ。ずっと。
「ん」
急に矛先が首筋に変わる。頚動脈を齧るように歯を立てられて不覚にも声が出た。こぼれてしまったそれは取り返せない。
砂地に染みこむ水のようにすぐに消えてしまえばいいのに、足元に落ちたままでいるから恥ずかしい。だったら目を閉じればいいと人に言われそうだが何故だかそれができなかった。男はまだ目を閉じたままだ。それでよくこちらの位置がわかるものである。赤い瞳、縛るまなざし。今は存在しないのだから振りきって逃げてしまえるのにそうできない。首筋をなぶるようにされたあとに今度は頬だ。
また小鳥がついばむようなキス。
……こんな丸味もなにもない頬にくちづけてなにが楽しいのだろうか。どうせなら可愛らしい少女にでもしてやればいいのに。
と、そこまで考えて顔が熱くなった。冷静を装うが頭の中でくるくると先程までの会話が回る。
『―――――ったく、なんでてめえはいつもそうなんだ』
『生憎と生まれつきなものでな』
『英霊がなに言ってやがる。ほんとに、素直じゃねえな』
そうして。
『よし、オレと約束しろ。今度おまえが素直じゃねえこと言ったらキスする。どうだ?』
『……私に、それはなにかメリットがあるのか?』
『馬鹿野郎、あるに決まってんだろ。よし、今言ったよな、素直じゃねえことな』
それじゃキスするぞ、と。
路地裏に引っぱりこまれてこのザマだ。
買い物帰りに出会ったので、荷物はそのまま足元にある。ついさっき落とした声と一緒にアスファルトの上。
すぐに傷んだりはしないだろうが果物も買ってあるので早く帰って冷蔵庫にしまいたい。だとするとキスを続けるこの男を突き飛ばすか蹴り飛ばすかなにかして逃げ出してしまうのが一番なのだがやはり、自分は動けないのだ。
馬鹿は私だろうか?それともこの男か?
聞いてみても答える相手はいないし聞く相手もいない。唯一目の前の男が答えてくれそうだったが、聞いたが最後「気を散らすな」だのなんだの言ってもっとしつこいキスをしてくるに決まっている。そうに違いない。
…………。もしかして、毒されているのだろうか、この思考回路は?
「んっ、らん、さ、っ」
案外はっきりと出た声に驚く。そうか。軽いくちづけばかりされていて、唇も舌も支配されてはいない。だからちゃんと喋ることもできるし、声も出るのだ。ランサー、と繰り返して名前を呼ぶと男はようやく薄目を開けてこちらを見た。
「あん?」
「もうやめたまえ。いくら人が来ないといっても往来だぞ。みっともない」
「別にいいだろ。おまえが言ったとおり人が来るわけでもねえ。人が来たってこんなところまで誰も覗きにゃこねえよ。いたとしたら、そいつは相当の物好きだ」
「物好きは君ではないかね?」
「どういう意味だ」
「私などにこんなことをしてどうなる。暇つぶしも大概にしないと時間の無駄になるぞ」
「…………はあ」
男は眉間に皺を寄せると、そこを指先で何度かつついてから頭をがしがしと掻きはじめる。
「やべえやべえ、こんな顔してたらオレまでおまえみたいになっちまうぜ」
「どういう意味だ」
「そういう意味だ。……ってさっきのオレの言葉をそのまま使ってんじゃねえよ、オウムか九官鳥かおまえは」
それは君だろう。
狗のくせに小鳥のように触れてきて。
だからといって狗のようにがつがつと触れてきてほしいというわけではないが。当然だ。触れてほしいはずがない。だが、しかし。
それなら何故自分は動けなかったのだろうか。そして逃げなかったのか。
「なに首かしげてんだ」
「いや。少々疑問が頭の中を支配して」
「そんなもんに支配されんな。いいから、オレのことだけ考えて感じとけ」
「…………」
「なんだその顔」
「いや。……その、なんだ。ずいぶんと君は、気障なことを言う男だったのだな、と思った」
言ってしまってから口を押さえる。口からこぼれた言葉を押しとどめるのと、反射的にやってくるであろうキスを防ぐのと半々の意図で。
知らず眉間に皺が寄る。
「おまえに言われたくねえよ。この自動歩行機能付き歯の浮く言葉製造機が」
「……早口言葉かね?」
きょとん、と男が目を丸くした。とたんに幼く見える赤い瞳。ぱちん、ぱちん、とまばたきをして、それから盛大に噴きだした。
「なんだよ、冗談も言えるんじゃねえかおまえ。それともオレのおかげか? ん?」
「どうして君のおかげになる」
「素直じゃねえからキスしてやるつったろ。そんで、素直になったんじゃねえの。おまえ」
うん、きっとそうだなだなんて勝手なことを言った男はにやりと笑って顔を近づけてきた。近い。近い、近い近い!
「よし、素直ないい子にはキスしてやろうな」
「なっ、」
なんでそんな話になる。
言いたくて言えない言葉をどうやって聞いたのか、だってよと笑って男はさらに顔を近づけてきた。
赤い瞳に、体が凝固する。


「素直ないい子には褒美をやるもんだろ?」


そう言って、男がしてきたキスはとても「いい子」にするものではないほどに深かった。
舌を散々に吸われて、ああ、これでやっと狗らしくなった、と安堵してしまった自分はやはりどこかおかしかったのだろうか?



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