のれんをくぐって台所に入ると和風だしのいい香りがした。すっかりニホンの味に慣れたな、なんて思っているといつもの格好にプラスエプロンの後ろ姿。
「てい」
「ッ!」
わざとらしく声を上げて抱きついてみせると驚いた様子。それにこちらが驚いた。
こんなに気配をあらわにして入っていったのに、気づかなかったのだろうか。おそるおそる抱きついたままで見上げてみる。と、眉間に皺を寄せたいつもの顔。
「…………」
「…………」
「まず最初に?」
「ごめんなさい」
よし、と言われてぺこりと頭を下げた。大変申し訳ない。
「まったく、湯の温度も野菜の味つけも問題なかったからいいものの、調味料を入れたりしていたところだったらどうするつもりだったのかね。それでなにか失敗でもして不味い食事を出すようなことになったら私はどうすればいい? セイバーは気づかずに平らげてくれるだろうが、小僧が! 小僧がぐちぐちねちねちと小姑のように文句を言う姿が目に浮かぶようだ目に浮かぶようだよランサー、ああ殺すか殺したいぞランサー、この詫びに手伝ってくれるだろうね」
「手伝うかこの磨耗スキーさんめ。つか二度も言うな。興奮しすぎだ。それに小姑はおまえだろ」
「なに、冗談だよ」
嘘だ。
絶対、嘘だ。
湯気と和風だしの香りでいっぱいの台所がなぜだか殺伐としてきた。何故だろう。この男のせいだ。ファイナルアンサー!
自分も大概この時代にかぶれてきたなと思う。あの黒い顔の男。この男の心を盗む昼間の憎いアイツだ。
「あ」
「あ?」
見てみた。固まった。解凍された。手に取った。
「ばっかおまえ、なにやってんだ! って、オレのせいか! 悪りい!」
「気がつかなかったな。まあ大したことでもあるまい」
「大したことだろ! おまえ、オレがちょっと怪我したら陰でめそめそしてるくせになんでてめえのことになるとそんなに無頓着なんだ? ほら、手洗え。そんで傷口見せてみろ」
「問題ない」
そう言うと、ちゅ、と音を立てて奪い返した指先を吸い始めた。おそらく自分が飛びついたときに切ったであろう人差し指だ。なんで、と口に出して言ってまたそれを奪い返す。
「だからなんでそんな無頓着なんだって」
「問題ないと言っている。…………問題ないだろう?」
「なんでちょっと不安げに聞くんだよ。オレが問題あるって言ったらうなずくのかおまえ」
「問題による」
「オレが聞いても選ぶのか」
「選ぶともさ」
「じゃあ聞かねえ」
聞く耳持たねえぞ、と言い、血を流している指を口に含んだ。「ん」と声を上げて体を揺らす。変な沈黙。離す。いやらしい音がする。見つめ合う。鍋がことこといっていて、慌てて掴まれていないほうの手でガスを止めている。見つめ合う。
「…………やべえ」
「…………なにがだね」
「変な気分になりました」
「…………」
「無言!?」
「…………だよ」
「は?」
顔を逸らされるかと予想していたが、されなかった。ひたりとまっすぐに見つめてきた。褐色の肌がうっすら赤い。
「私もだよ」
間があいた。
「は!?」
怒鳴った。抱きしめたくなったので抱きしめた。すぐに離して、キスする。自分の顔も赤くなっているのがわかった。ぱしぱしぱし、と片手の平手で叩いて確かめる。
熱い。
「うお」
つぶやく。
少し恥ずかしい。そう正直に言うと、私もだよ、と同じ答え。そのあいだも指から血は流れつづけていて、その匂いがして、あまりにも美味そうだったものだから、ついまた口に含んでしまった。
「―――――っん、」
声を上げるのを聞きながら血をすする。甘い。爪先を噛んで、骨をなぞって、関節をたどって、全部愛した。みんな愛した。
息が荒くなってきて余計に変な気分になる。涎まみれの人差し指、てのひら、甲、指と指のあいだ、つまり手全体を。
舐めて、吸って、確かめて。
「ランサー…………」
今度は熱っぽくなった声を確かめようと指を離して、薄い血の味がする唇で淡く開いた唇を奪おうと、


「夕飯はまだでしょうか、アーチャー」


離れた。
「おや?」
心臓がばっくんばっくん言っている。なんという鼓動。
「ランサー、こちらにいたのですか。…………つまみぐいなどしていないでしょうね」
首をぶんぶんと振る。本当ですか、と言うのに今度は首を縦に振った。
「それならいいのですが…………? どうしました? 顔がずいぶんと赤いですが、湯あたりでも?」
「んなっ」
……野良猫みたいな声が出た。
「…………んでもねえよ」
「そうですか?」
「なんでもねえ!」
「それならいいのですが。……ああ、アーチャー。今日も美味しそうな煮物だ」
「うむ。一口食べていくかね、セイバー?」
文字上ではきちんと話しているようだが、声が裏返っている。だが騎士王はそれにまったく気づかずに、ぜひ、と可憐に笑って答えた。
「あーん」
「あーん」
吹いて冷ましてやったじゃがいもをひとつ、口に放りこんでやっている。大きめのやつをだ。
はふはふはむはむごっくん、ため息。
「今日もまた、絶品です」
「それはよかった」
うん、アーチャーは、じゃなくて、アーチャーの料理は絶品だろう。イーナー、つか、イーナー。
アーチャーはエプロンを外しながらそれでは、と言う。
「そろそろ支度をするとしよう。ラ、ランサー、手伝ってくれるかね」
あ、ちょっと噛んだ。
息を吸って、吐いて、答える。


「おう」
どうやらちゃんと笑うことができたようで、男は困ったように眉を寄せて笑い返してきた。
ちなみに涎でべたべたの手は素早くエプロンで拭いていたようだ。



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