つい数分前まであらゆる手を尽くしてこの世から消し去ろうとしていた身体を抱き寄せる。その内にある魂を少しずつ削り取るように、外側から斬りつけた。
槍の穂先を見舞った。言葉すらなく、限界が来るまで。
武装の上からもどかしくてのひら全体を使って撫でた肌には、無数に傷跡があった。どれも淡い傷ばかりで凄惨さはない。
それどころか間違えば微笑ましさを感じてしまう。子供の柔らかい肌にできた傷跡。
笑い声を上げて駆け回った末の傷、友達とじゃれ合って作った傷。茂みに息を潜めて隠れていた時の。それから。
腕の中で軽く顎を上げ、水面から顔を出して懸命に酸素を求めるように浅く早い息をつく男の子供時代など槍兵には知る由もない。ただ漠然とそんな風に思っただけだ。たとえ諍いによって刻まれた傷だろうが、虐待によって刻まれた傷だろうがどうでもいい。
君は、あつい。
呂律が回らないようにぼそりと呟いて、聞き返してもいないのに同じことをつぶやく。
君の体は、熱い。
赤らんだ頬に擦り傷。こめかみの横の髪を湿らせて伝っていった汗がこびりついた泥を溶かす。
低く掠れた声はどう聞いても大人の男のもので、とても幼くなど聞こえなかったのに思った。訴える子供の言葉だと。
何度も抱いているのだからしなやかに伸びた腕の長さや自分とそう変わらない背の高さも知っている。だが、汗で貼りつく武装を掴む熱い手は柔らかい。
戦いの最中、一度は槍兵の首を絞めた指先がそこに宿った強靭な意志を翻すように縋りつく。
今度は槍兵が白い指先を伸ばし、軽く仰け反った首を絞めつけると切羽詰った、しかし酔い痴れるような声が薄く開いた唇から上がった。
熱い、君の、体――――いつもと、……。
言葉が言い終えられる前にブルーの布地に朱が広がり、槍兵は自分も傷を負っていたのだとその時初めて知った。痛みはなかった。
目の前にいたはずの男の顔がいつの間にか腹の下まで落ちていた。水分を含んで重くなった布地がほんの少し、破かれる。
そこから覗いた抜き身の刃のような青白い肌は深く裂けていた。
皮膚を剥ぎ、肉を断ち切った人もどきの身体の中はこんなにも鮮やかなのだと思わせるその傷跡に舌先が這う。音を立てて触れ合う、肉。
赤くてらてらと濡れた。覆い隠すものはない、露出した。普段は隠されているもの。
俄かに興奮して頭を押さえつけ、傷口にもっと深く舌と唇が触れるように槍兵は何度も押しつける動きを繰り返した。
単純に驚いたのか瞬間口腔の中に引っ込んでしまった舌はすぐにそこから忍び出るように現れ、槍兵の望む通りに傷口を舐めた。唇が傷の全体を吸うようにして、滴るほど唾液をまとったひらめきが滲む血を薄めては舐め取っていく。
舌や唇に似た器官に吸いつく時より熱心な動きにも槍兵は満足できず、白い髪に指を絡めて強く押しつける。ぞっとするほどの欲望が槍兵を襲う。
ん、んん、ん、と、断続的に声が漏れて。その頭をくしゃくしゃと弄びながら、槍兵は急激にやってくる快楽に身悶える。
ああ。
ああ、ああ、ああ。
――――ああ!
なんて。
なんて罪深い、快楽なんだろう。そしてそれを自覚することに、どうしてこんなに愉悦を得るのだろう。わからない。でも知らなくともいい。ここにあればいいのだ。快楽が、愉悦が、かたちとして、あれば。
ただそれだけで。
ふたりには、その他のことなんてどうでもいいこと。
「……ん! んんふ……っ……ん……っ……」
傷口を舐める舌がもっと欲しくて、槍兵は白色の頭を強く強くそこに押し付ける。果たして、やってきたのは途方もない快楽だった。まっさかさまに登っていくような。矛盾している。落ちるのではない、天に昇っていくのだ。
さかさまの快楽。恐怖が、血が、死が、迫ってくるのに快楽を覚える。真っ当ではない。けれど構わない。そんなものはどうでもいい。本当にどうでもいいことなのだ。それよりも早く、速く、はやく。
もっともっと深い、泥沼のような快楽が欲しい。
「アー、チャー……っ」
ちら、と見上げた瞳が一瞬だけ紫色に見えて、背筋がぞくりとする。だがすぐにそれは普通の色、鋼色に戻った。
舌を出して舐めるその姿はひどく扇情的で、そそる。征服欲を高められる。ひたすらに。ただひたすらに乗りこなして、首に縄を付けて、手足をくくって、己のものに。
したいと。
「…………っん、」
閉じた目蓋の下に差した影が艶っぽかった。どくん、と心臓が血を送り出す。
壊れかけの心臓が。疲労を訴えるろくでなしの心臓が。こんな時ばかりに働いて。
「――――はっ」
槍兵は嗤う。傷口を一心不乱に舐める男のように不敵に。光の御子がなんて様だ。かつて愛した、今でも愛している妻が見たら卒倒すること間違いなし。そんな風にいかにも悪役らしく。
嗤った槍兵の気配を受けたのか、また瞳が開こうとしたので――――。
「目。閉じてろよ、鬱陶しい」
気が散る、と暴言を吐いて。
本当は欲情しているくせに、たまらなくその目を覗き込みたくてたまらなくなっているくせに、槍兵は正反対のことをささやいた。熱っぽい声で、落とすようにささやいた。
自分の声を聞くだけで昂ぶる。男の欲というものが、傷に侵された身だというのに主張して。でも仕方ないだろう?
たとえ半神半人でも。
人というのは。
快楽に弱い、生き物だ。
生きているから、だから。だから、求める。快楽を求める。弱いというのにたまらなく求める。弱点を穿たれてしまうというのに罠に飛び込んでしまう。
本当に愚かな生き物だ。人間というのは!
だからこそ。
だからこそ、生に執着する。だからこそ、欲望を追求したくなる。どこまでも、どこまでも、どこまでも。
深淵を。
覗く時は、注意しなければならない。
その時は、深淵とてこちらの方を覗き込もうとしているのだから。
「く、くく」
「…………ッ」
「おまえは本当に最低で、最高だよ……っ、アーチャー……っ」
アーチャー。
弓兵。サーヴァントのひとり。……命を奪い合う相手。生を、戦いを求める槍兵から、その生を奪っていこうとする相手なのに。それなのに。その存在が、今は限りなく愛おしく。
……曲がった愛情で、手放せずに繋いでいる。
漏れる吐息。湿る空気。まだまだ、時間はあるのだ。



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