あんまりにも世界がくるくる回るので、ありえないことが起きた。
「よ」
夜、ビルの上。声をかけてきた男にアーチャーは半眼を向けた。
「……見逃してやったというのに、わざわざ撃たれに来たか」
「もうおまえのここでの役目は終わったはずだろ?」
気楽に言って隣に腰かけると、足をぶらりと伸ばす。いい眺めだ、などと白々しく言って男―――――ランサーは遠くを見るように手をかざした。
「オレもな。役目は終わった。もうすぐこの繰り返しも終わるんじゃねえのか」
「―――――」
「ま、坊主があれだしよ。まだしばらくはかかりそうだがな」
風が吹く。ランサーの後ろ髪がなびいて、アーチャーも揺れる髪を手で押さえる。と、横からの視線に怪訝そうな顔をした。
じっ、と子供のような真摯さでランサーがアーチャーの顔を見つめている。
「なんだね」
「いや。……おまえ、そんな顔もするんだな」
そんな顔?
やはり怪訝そうに繰り返して、アーチャーは手を下ろす。赤い瞳はあまりにもまっすぐで、見つめつづけられているとどこか痛みが走るようだった。思わず眉を寄せると、はっと我に返ったようにランサーがまばたきをする。
まるで夢から覚めたかのごとく。
「どうした?」
「なんでもねえよ」
「だが……」
「なんでもねえっつってんだろ!」
強く風が吹く。アーチャーは目を見開いてランサーを見つめた。ランサーは獣の形相でアーチャーを睨みつけている。その顔は、猛犬の二つ名にふさわしく、けれどもどこか脆さが見え隠れしていて。
「ランサー」
だから、アーチャーは男の名を呼んだ。
その声は低く、だが掠れることはなく、しっかりと芯の通ったもので、ランサーにもきちんと届いたのだろう。
ランサーは表情を崩す。
「ランサー」
やわらかく、ほどけた。
むきだしにされた野性と殺意がなりをひそめ、昼間のひとなつこい男の表情に戻る。何度かまばたきをしたあと、ランサーは笑った。
「……悪かったな」
困ったように笑うので、アーチャーもそれ以上なにも追求出来なくなってふいと視線を逸らす。
「謝るくらいならするものではない」
「だから、悪かったって」
座っていたランサーはよっ、と声を上げると身軽に立ち上がる。後ろ髪が揺れて青い残像になった。近づいてくる気配に気づいていたが、アーチャーは気づかないふりをしてそれを受けいれる。
向けられる視線。するり、と触れられた頬。節くれだった指は以前にさんざんアーチャーを翻弄して喘がせた指だ。また不埒なことでもしようというのかと一瞬思ったが、添えられた手は乾いていて、ああ、これなら安心だ、とアーチャーは内心で思った。
この男はもう、いたずらにアーチャーを辱めて楽しむような男ではない。
鋼色の瞳が静かに閉じられる。
「なあ、アーチャー」
答える準備は出来ていた。
「キスしてもいいか」
静かにうなずくと、苦笑する気配がしてそれでもうれしそうにランサーは唇を寄せてきた。あのときとは違って激しさはなく、穏やかなくちづけだった。たまに唇を離して息継ぎをする余裕を与える、そんなやさしさも持った。
けれどアーチャーはそれだけではなんとなく物足りなかったので、男の方も物足りないだろうと思ったので、瞳を開けると男の顎をとらえて激しくその唇を奪う。男は目を刹那見開いたが、それをきゅうと細めるとどうやら、笑ったようだった。
突然抱きしめられて顎をとらえた手が外れる。あ、と思ったアーチャーだったが、次の瞬間熱い舌が絡められてきてそれどころではなくなった。詰まった声を上げてそれを受けいれる。長くて厚い、熱い男の舌。ランサーの舌。
二度目のくちづけ。
ゆっくりと唇を離して、唾液に濡れたアーチャーと己の顎をそれぞれ手の甲で拭うとランサーはささやく。
「いい女には縁がないが―――――」
くしゃり、と顔を歪めて。
「おまえがいるから、まあ、いいとするか」
言葉にすればあまりな言葉だったけれども、それを言った顔があまりにもうれしそうだったから。
アーチャーは仕方ない奴だといった風に笑んでみせた。
「―――――たわけが」


世界はまだ、くすくす笑ってくるくると回っているが、その笑い声はだんだんと小さくなってきている。



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