永遠に循環するかに見えた世界は、ようやっと止まろうとしていた。
無言のまま立ち上がったアーチャーを見て、先日以来定位置になった場所に腰かけたままのランサーは首を動かせそれを見やる。
「行くのか」
「ああ―――――そろそろ、時間だ」
彼女が待っているのでなと告げるとランサーはつまらなさそうな顔をする。嬢ちゃんか、とつぶやいた。アーチャーは答えず、代わりに静かに微笑んだ。
「いいよなあ。おまえは、子供だとはいえ、あんないい女と縁があってよ」
「…………」
「……なんだよ」
真顔で見つめられて少したじろぐ。そんなランサーに、身支度を整えながらしらりとアーチャーは告げた。
「それでも、私がいればいいのではなかったかね?」
ぶっ、とランサーは噴きだした。頬をわずかに赤く染めてなんといっていいのかわからないような顔をしている。それがあまりにも予想どおりだったから、アーチャーはつい無防備な笑いを浮かべてしまった。
まったく、なんという変わりようだろう。初めのとき、あんなに傲慢に、乱暴に自分を抱いた男とは思えない。吐き捨てるような言い草、嫌な微笑み、アーチャーの拒絶も受け入れるどころか、認識さえしなかった。
勝手な男だと思った。
それが、いまはどうだ?
「あんなにうれしそうな顔をして言っておいて」
「ば、な、あれはな……!」
「嘘だったとでも?」
冗談のように言って、声を立てて笑う。
だん、と両腕が顔の真横の空間を貫いた。退路を断たれアーチャーは目を丸くする。真剣な赤い瞳が、アーチャーを睨むように見つめていた。怒ったかのように、拗ねたかのように片眉を器用に跳ね上げてランサーは言った。
「馬鹿野郎」
低い声だった。声にしても、怒っているのか拗ねているのかわからない。
「オレは嘘は言わねえ」
その言葉にアーチャーは何度かまばたくと、すまない、とただひとことだけ告げた。
「すまなかった」
「許さねえ」
「……では、どうしろと」
「行くなよ」
しん、と風が止む。動きは電光石火だった。コンクリートの上に押し倒され、覆いかぶさってくる男の顔を見る。不思議と抵抗する気は起きなかった。男があまりに真剣な顔をしていたからだったろうか。
唇を薄く開いて、くちづけをしようとして男は寸前でそれを止める。
「ここで滅茶苦茶に抱いたら、おまえ、行かないでここにいるか?」
「……無理な相談だ」
「だろうな」
ささやく声は、問いながらも答えがわかっているようだった。
アーチャーは押し倒されたまま男と黒い空を見上げてつづける。
「どれだけ無体をされようが、私は凛のもとへ行く」
「そんなにあの嬢ちゃんが大事か?」
「彼女は私のマスターだ」
「そうじゃねえだろ」
わかってるくせによ、と吐息のようにそっと。
言ってから、ランサーはあーあと残念そうにため息をついた。
「オレは坊主を恨むぜ」
「ほう。めずらしく意見が合ったな」
「そうだろ? 坊主がおかしな風にこの世界を回さなけれゃ、こんな思いしなくとも済んだ」
今度は完璧に拗ねた子供の口調で言うから、おかしくなってアーチャーはくつくつと笑いだした。するとランサーは顔まで拗ねた子供のようにして、笑うアーチャーをねめつける。
なにがおかしい、と言うから、いや、別に、と笑いながら答えてみせた。
とたんにふてくされた顔をする男がおかしくて、とうとうアーチャーは笑い崩れてしまう。
「あ、てめ、この」
早口で降ってくる罵声には少し足りない不満の声に、体を揺らして笑いながらアーチャーはつぶやく。
「けれど、」
ランサーはその声を聞いて神妙な顔になった。アーチャーは笑いを滲ませながらつづける。
「けれど、楽しかったのだろう?」
赤い瞳が、追憶の光を灯す。
“……楽しもうぜ。アーチャー”
かつての情事のときの声が、ふと脳裏に蘇った。そうして、繰り返す四日間はそのときの言葉のとおりになった。
きっかけは唐突だったけれど、様々なことをふたりは知った。
劣情にまみれて抱きあうことはあれ以来一度もなかったけれど、それ以外の、様々なことを。
もちろん楽しいことばかりではなかったけれども。


「ああ」


ランサーは笑った。苦く、それでも満足そうに。
「退屈しなかったぜ。……この四日間」
アーチャーはランサーを見上げる。ゆっくり、はっきりと口を開いた。
「ならば、笑って別れを告げようではないか。ランサー」
ああ、とつぶやいてランサーはアーチャーの上から体をどける。アーチャーは概念武装についた埃を払うと、乱れた髪を整えた。
「それでは、時間がないのでな」
「そうか」
「未練が残るまえに行くとしよう。君は?」
「オレは―――――ここにいる」
「わかった」
理由もたずねずにそう返すと、アーチャーは立ち上がった。それでは、と告げてビルの縁に立ち、ふと思いだしたように踵を返す。
「どうした…………」
ランサーは声をこもらせて、まばたきを何度かした。
アーチャーはなにごともなかったかのようにそっと唇を離すと、
「なに、忘れ物をしただけだ」
冗談のように、言った。


眼下へと消えていったアーチャーの姿を追うことなく、ランサーは軽く触れただけの唇を指でなぞる。あまりにしつこく触れると感触はすぐに消えてしまいそうだったが、それでもランサーは飽きずに唇をなぞっていた。
「当たりか、外れか……」
小さく、ひとりつぶやく。この世に終わらないものはない。いつか、必ず終わりが来る。楽しいことにも悲しいことにも、いつか。
楽しい時間はすぎるのが早い、とひとりごち、ランサーはビルの縁にしゃがみこんだ。
そして、小さく、笑った。


世界はもうすぐ、終わりと始まりを同時に迎えようとしている。
目覚めが、やってくるのだ。



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