「ん、」
前触れもなしに唇をふさがれてつい声が漏れた。犬のように表面をぺろりと舐めて離れていくのにこぶしを握る。
「こ、の」
たわけが、と言うと不思議そうな顔。なんで、とくちづけたその口で言うからさすがに呆れた。
なんで、だとか。
言うか。
馬鹿が。
「乾いてるかどうか確かめただけだろ」
「そんなもの見ればわかる! ……何故、触れる必要が」
そもそも触れるなら触れるで指で。早口で言えばのんびりと、ああそうかだなんて言っている。
「でもよ。口で、確かめたかったし」
「……それで済まそうと?」
「なんだよケチケチすんな。犬に噛まれたと思って忘れろ」
「犬は犬でもクランの猛犬だがな!」
誇りはないのか誇りは。大声で怒鳴るとうるさそうに耳をふさぐ。そのしぐさにまたこぶしを握りこむ。と、そのこぶしがそっと、包みこまれた。
「物騒な真似すんな。口で言やわかる。な?」
「生憎と私は君のように“口が上手く”ないのでな」
「そんなもんやってみなきゃわかんねえよ。何ならオレが練習台になってやってもいい」
「噛みついても?」
「情熱的だな」
「そのよく回る口、食いちぎってやる」
らしくない口調で言えば、赤い目をぱちくりとまばたきさせた。かと思えば顔をくしゃっとさせて笑う。
膝に膝がぶつけられた。そこに注意を向けたと同時にまた口づけられる。電光石火。噛みつこう、そう思った時にはもう離れていた。
歯噛みする。
「やめとけやめとけ。速さではオレに敵わねえよ」
いつのまにか両方のこぶしが包みこまれている。口が上手くて手が早い。なんて軟派な。
「それにしてもおまえの口、乾いてるよな。嬢ちゃんにリップクリームでも借りてこいよ」
「私にとことん恥をかかせたいようだな」
「なら、オレが舐めてやる」
「よさんか!」
動きを封じられた。上からのしかかるように攻めてくる。憎らしい、本当に憎たらしい、それなのに嫌いになれない。また歯噛みする。情けないったらない。こんな自分が。最後には許してしまう自分が。
体温は抵抗をあきらめさせようと体のあちこちに作用して、


「それはよくないですね」


冷静な声に、弾かれるように視線を向ける。そこには冷静な面持ちの美女の姿。春の花の名を持つ少女のサーヴァントだ。
「わたしの読んだ本によりますと、唇を覆う潤いの膜は舐めることで失せてしまう。荒れる一方です。大変よくありません」
「へえ」
「き、み……いつ、から」
「何故触れる必要が?とあなたが問うていた頃からでしょうか」
「デバガメはよくねえなあ。オレはまあいいが、こいつが恥ずかしがる」
「誰が!」
「おまえだおまえ」
「すみません。……アーチャー?」
美女はことん、と首をかしげた。
「先日サクラが良いリップクリームを購入したと喜んでいました。よければ、銘柄をたずねてきましょうか?」
「っ、っ、っ」
「そりゃいい。どんなんだ」
「歌い文句は“キスしたくなる唇”だそうです」
―――――ぷつん、と何かが切れた。
「あ、おい、おまえ」
もったいねえな、と何気なく言って噛み切った唇から流れる血を舐め取ったが早いか、頭からいい音をさせてクランの猛犬は畳に沈んだ。
煙を出して動かないそれを見つめて美女は言う。
「なるほど。リップクリームなどなくとも、あなたの唇は充分にキスしたくなる唇なのですね」
「今は何も言わないでくれるか……!」



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