犬が濡れ鼠になって帰ってきた。


「そのまま玄関から上がるな! 庭を通って……ああ、だから、上がるなというのに!」
飼い主(マスター)の躾が悪いのか、それとも躾がきつすぎて鬱憤が溜まっているのか、犬は本当に言うことを聞かない。一度その件で正座をさせて懇々と叱ったことがあるけれど呆気に取られるほど純粋な瞳で「おまえ相手だから、甘えてえんだよ」などとわけのわからないことを言われて結局うやむやにされた。
あの小さな英雄王とて言わなくとてきちんとする。嫌味で君は子供以下かねと言ったらあいつと比べるなとふてくされられた。
まったく、どこまで振り回すつもりなのか。
濡れて青味が増した頭にタオルを放り投げて、風呂場へと向かわせる。廊下は後で拭かせればいい。今やらせればそれこそ、収拾がつかない。
「人のシャンプー等は使うな。濡れたまま出てくるな。ちゃんと隅から隅まで洗うように。タオルをそこらじゅうに放りださないこと。―――――あと、言っておかなければならないことはあるかね?」
腰に手を当てて言うと、目に見えてぶすくれた。わかってら、と言うのでいいやわかっていない、と言い返す。
「わかってるってんだろ」
「その場ののりで言っているだけだろう」
「そんなんじゃねえよ」
「信用できんよ。信じてほしいのなら、常日頃からきちんきちんと折り目正しく生きるべきだな」
言ってから、そんな犬は想像不可能だと思った。きちんきちんと折り目正しく。そんな柳桐寺の某次男坊のような犬など想像がつかない。
そう言えば、また子供と比べるなだのなんだのと、ぶつぶつ不平を唱えるのだろう。
「まったく、いちいち注意されなければまともに何事もできんなどと嘆かわしいことだ。アルスターの英雄の名が泣くぞ? それとも、そんな名はもう捨てたか、クランの猛犬」
風呂場の中で汚れたシャツを脱ぎ捨てていた犬は、その言葉にぴくりと反応した。そのままで何か言いかけて、気づいたのかもぞもぞとシャツを脱ぐ。鍛えられた、しかし細身の裸体をさらして指先を突きつけてくる。
「なんだてめえは、いちいちぐちぐち、オレのおふくろかなにかか? 冗談じゃねえ」
さすがに怒ったのだろうか。だが謝ることもないだろうと半眼で見ていると、とんでもないことを言いだした。
「おまえはオレのこいびとだろう。おふくろじゃねえ。キスならまだしも、ガキに抱かれるおふくろがいるか? いねえだろうが」
……なんてことを言いだすのか。
無言でその場にあったタオルを投げつけた。顔面にヒットして、はらりとはかなく落ちる。顔がかっと赤くなっていくのが自分でもわかった。
「何を言いだすかと思えば、な、なんてことを!」
声が上擦る。不覚だ。けれど斜め上を遥かに突き抜けた論理を展開されればまともに応対できるはずがない。しかも、…………抱かれたのだ。昨晩、実際に。まざまざと思いだせるくらいには、鮮明に記憶しているほど何度も。
ジーンズだけになった犬は眉を吊り上げて、本当のことじゃねえかとたわけたことを言う。本当だからといって、言っていいことと悪いことが世の中にはあるだろう。そんなこともわからないのか?本当に子供以下だ。英雄王以下、次男坊以下、衛宮士郎以下だ!
「照れる柄じゃねえだろ、そんなことは最初に済ませとけ。何度もやっといて、いまさら生娘みたいな反応すんな」
「言うにこと欠いて、貴様は!」
「ああでもそんなところがおまえのいいところなんだよなあ。擦れてるような面してるくせして、変なところで純粋だ」
犬は一瞬黙ると、疑わしそうに問うてくる。
「狙ってんのか?」
「そんなわけがあるか!!」
がらがしゃーん、と盛大な破壊音が鳴った。枷が外れてしまった。結果、風呂場は散々な状態になって、住人たちはしばらく銭湯通いを強いられることとなった。マスターからは大目玉を食らったが犬が悪いのだと言い通した。
もちろん、彼女の機嫌を少しでも良くするために大破壊の原因を口にするなんてことは、決してなかったけれど。



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