気配を感じた。
ランサーは注文を取り終えるとそのままそれをウェイトレスに手渡し、「ちょっと休憩」のサインをする。店の従業員なら全員が知っているサインを、彼女は笑って了承した。まだ昼前の比較的暇な時間というのもあって、ランサーがひとり抜けても支障はなさそうだった。
裏口から外へ出る。と、やはり“そいつ”はそこにいた。仏頂面の背の高い男。
男が手にしたものを見てランサーは、ああ、と合点がいったようにひとりうなずく。
「わざわざ届けに来てくれたのか?」
「セイバーがいるから無駄にはならんがな。後でどうして持ってこなかったのかと恨まれるのも面倒だと思った、それだけだ」
「冗談、あいつになんぞやれるかよ。ただでさえ昨日の最後の卵焼き持ってったくせに」
「……君は大人気ないな」
「英霊の時点で大人も子供もねえよ。扱いは平等にしてくれや」
おまえはセイバー、というか女子供に甘い、と鼻先に指をつきつけ、ランサーは男―――――アーチャーが手にした包みを受け取る。
座りこんで中を確かめようとする、その腕が黒い衣服に伸びた。
「どこ行くんだよ」
「用は済んだ。帰るに決まっているだろう」
「オレの用はまだ済んでねえ」
せっかくおまえが来たんだから、とランサーは笑う。
「五分でいいからよ」
アーチャーは鋼色の瞳を半眼にしてランサーを見たが、ため息をつくと仕方ないといった風に裏口を抜けだそうとしていた足を戻した。
ランサーは隣のポリバケツを叩いてここに座れ、と催促する。ぽこぽこと間の抜けた音が鳴った。
「お、」
弁当箱の中を見たランサーはうれしそうに声を上げる。アスパラガスの豚肉巻き、じゃがいものバターグラッセ、セロリとコーンの炒めもの、チキンのバーベキューソテー、苺、白いご飯に黒ゴマ。
それと、卵焼き。
蓋を閉じたランサーはにやりと笑ってアーチャーを見上げる。高みからそれを見下ろす形になったアーチャーは、予想通りに眉間に皺を寄せてランサーを見た。
「なんだね」
「いや? 今日も凝ってんなあと思っただけだ」
「これくらい、簡単なことだ」
本当に素直じゃない。
ランサーは口端に浮かべた笑みを隠しきれなくて肩を揺らし、くつくつと喉を鳴らす。
「あ、こら」
素早く弁当箱の蓋を開けて、苺の一粒を口に入れたランサーにアーチャーが制止の声をかけるがもう遅い。
「勤務中につまみ食いとはだらしないぞ、ランサー」
「今は休憩中だからいいんだよ」
休んだ分はしっかり働くさ。
ランサーはしゃがみこんだままそう言ってみせる。本当だろうかという顔をしたアーチャーに、信用がないなと笑って。
「本当だっての。そうだ、おまえ今度は客として店に来いよ。オレの勇姿、見せてやるから」
「……紅茶の類なら自分で淹れられる」
「そりゃあ、おまえの淹れる紅茶は美味いしそこらの店顔負けだがな。うちだってなかなか大したもんだぜ?」
「…………」
「騙されたと思って一度来てみろよ。な?」
アーチャーはしばらく考える様子を見せていたが、やがてこくりとうなずいた。
未だ笑いながらその様を見ていたランサーは、ん、と腕にはめた時計を見てつぶやく。
「そろそろだな」
「そうか」
短く答えて、では私は帰ろうか―――――とつぶやきかけたアーチャーの腕を、ランサーがぱしりと掴む。
「三十秒」
「は?」
「三十秒でいいから、キスさせろよ」
「…………!」
その言葉にアーチャーは過敏に反応する。だが逃げ場などない。ばかなことを、と言う口をそのままさらうように奪われた。
ぬる、と舌が入ってくる。押し返そうとしてあきらめる。あきらめて、絡みだす舌。擦れる粘膜、鼻に抜ける声、甘酸っぱい、苺の。
―――――。
大きく息をついて、離れていく唇を見たアーチャーは、それがやたらに濡れて光っているのに羞恥を覚える。ハンカチを探すが手元にはない。
「ランサー、」
呼んで、振り向いた顔を自らの服の袖で拭う。ごしごしと無駄な力を入れてしまい、ランサーが抗議するようになにかをもごもごとつぶやいた。
拭い終えて、確かめて、ほっとしたようなため息をつくアーチャーに、余韻を大事にしろよとランサーが言う。
それにたわけと返してアーチャーは背を向ける。しっかり仕事しろ、とひとこと残して。
背後でランサーが笑って了解などと言っているのを聞きながら路地に出る。そのまま混乱した頭で帰宅したアーチャーは最後まで気づかなかった。


キスをしているあいだの時計の針が、半分ではなく一回転していたことに。



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