草原は風ひとつない。凪がない、動かない。月は黄金色でありがちだが驚くほど大きく、まぶしかった。
そこに一人の男が立っている。
後ろ姿は見慣れたものだ。青い髪が月光に照らされてじわりと輝いている。美しかった。これは自分たちが見ない夢、というものだろうかと思い試しに声をかけてみようとすると先に彼の方が振り向いた。
ぞっとした。
なにもかもが抜け落ちた端正な顔。赤い目が見開かれてなにかがこぼれ落ちそうだ。泣いているようにも見えたがやはりそこにあるのは無でしかない。なにもない。
首だけで振り向いた男はじっと見つめてくるだけで、なにを言うでもない。動けない。縛られる。なにかを言ってくれたら逃げられたのかもしれない。けれど男はなにも言わない。ぬけがらのように見つめてくるだけだ。
音がない。
風もない。
声もない。
何もない。
呼べない。
動いても、声を出しても何をしても終わってしまいそうな気がして、具体的には何が終わってしまうのかはわからなかったけれど、もう、どうにも出来なかった。男はまだ立っている。
……と。
首が、ことんと傾いた。
童女のようなしぐさだった。
冷や汗が噴きだして思わず駆けだそうとする。ざあっと風が吹いて青くさい草の匂いが辺りに充満する。月は明るかった。逃げ場を提示してくれそうな気がした。だが、そんなことはなかった。
地面にしたたかに体を打ちつけられる。リアルな泥の匂いと草の匂いが鼻について、くらくらと一瞬の眩暈に襲われる。整った男のシルエットが視界を埋めつくした。ぬ、と上から顔を覗きこまれる。伸びてきた手の、少し伸びた爪。その隙間には血の色もなく真っ白い。うつくしかった。
馬乗りになられて逃げ出すことも出来ない。もがくことはしてみたが所詮は無駄なことだったらしい。
風が草原を凪いでいく。ここはどこだろう、と場違いな疑問を抱いた。そうすると男に抱かれた。首に腕を回されて縊られるように絞めつけられる。一切の手加減もないその行動に呻く。それでせめて笑ってくれるだろうかと思った男は、それでもやはりすべてが欠落した無表情でいて、なにもなくて、恐ろしくなった。
狂ったように暴れだすけれど、力の差は歴然としていて動けない。相手は強者で自分は弱者だ。この月明かりの草原の下で出会ってしまった時点で敗北していたのである。
苦痛と酸素不足に視界が赤くなったかと思ったがどうやらそれは間違いで、眉を寄せて空を仰げばそこには真っ赤な丸い月。呻きながら嘆息する。ああ。背後と上から、見つめられている。赤い瞳に見つめられている。
食いしばった唇に伸びた爪が触れた。軽く噛むと血の味がする。自分の血の味だった。男は機械的に指を進めてくる。唾液に薄まった血を掬い取るように的確に触れてきて、ぬるりとしたものを節くれだった指で絡め取った。普段のように人の口内で遊ぶことはしなかった。
治りづらい傷を弄ぶことも、しつこく歯列に触れて憤らせることも。
あれ。
この男は、誰だろう。
間の抜けた疑問が心の底から湧いてきた。あの男だと思っていたけれど、別人なのかもしれない。だとしたら―――――これは、裏切りか?
意外に嫉妬深い男を思い出して、慌てたように目をきょろきょろと動かせて見てみたけれどそれはあの男でしかない。ただあのひとなつこい微笑みやふてくされたような怒り顔、悲しげでさびしそうな顔がどこにもなくて、欠落しているだけだ。
……それは、もう、あの男では、ないのではないか。
わからない。
会話ひとつもなくて、感じるものといえば体温と恐怖と焦燥だけだ。
わからない。自分のこともこの男のことも。これがなんなのかも。ここがどこなのかも。はぐらかしているわけでなくて、本心だった。本当にわからなかった。
耳朶に噛みつかれて痛みが走る。そのまま乳飲み子のように吸われて、軟骨に歯が当たって奇妙な感覚が背筋を走る。舌を別の生き物のようにうごめかせ男は声ではなくて音だけをその口から発した。
鼓膜の近くで音を出されてそれがやけに生々しい。さらりと青い髪が首筋に触れて体がわななく。
はさ、と目の前に落ちてきた髪ひとふさを手にとって、おそるおそるくちづけてみた。
笑ってくれるかと思った男は、なにも、反応してくれなかった。


目を開く。そこは草原ではなく、自室として与えられた質素な衛宮邸の一室だった。心臓がどくどくと言っている。
夢―――――。
あまりにもお粗末な結末に、は、と震える声を上げて笑ってしまう。悪夢だ。もしかしてマスターにパスを通じて見られてしまったかもしれない。馬鹿にされてしまうだろう、もしかしたら軽蔑されるかもしれない。それでもよかった。
夢だったのだから。
襖が急に開けられて、男がひょいと顔を出す。流れる青い髪、輝く赤い瞳。あっけらかんと笑って呼びかけてくるそれに、平常心を装いながらひとことふたこと言葉を返すと、軽く説教をした。
男は笑って手をひらひら振り、部屋を出ていった。まったくと苦笑して喉に手を当てる。
それは無意識の行動だった。
がたがたと、手が震えだす。
自らの首を絞めるように手を回してみた。自分の姿が映りそうなものは一切見れない。あの男の瞳でさえも。
そこはくるりと一回転、熱を持って、熱かった。
誰かの腕で絞められたかのように。
今夜の月は黄金色だろうか、血の色のように真っ赤なのだろうか。なにも知りたくなくて、知らされたくなかった。
傷のない口内も、耳さえもずくずくと疼きだす。
頭を抱えてその場にひとりうずくまる。昼だというのにどこからか細く月明かりが差しこんできたような気がした。



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