「もうね、いいんだよ、シロウ」


流水音。
調理を終えて、洗い物をも終えてなお流れるその音をBGMに、幼い姉はゆっくりとそう言った。
その言葉の意味がわからず首を傾げる彼に、幼い姉は繰り返す。
「もうね、いいのよシロウ。……自分を、許してあげなさい」
「……許す?」
やはり意味がわからない。聞き返すと彼女の赤い瞳はきゅっと細まり、美麗な眉は切なげに寄せられた。蛇口はその間も水を吐き出し続けている。
褐色の手に、冷たい水を浴びせかけている。
節約だの倹約だのを心がける彼には珍しい行為だった。もう何も洗うものはないというのに、彼は流れる水をそのままにしている。己の手に、浴びせかけている。それを相も変わらず切なそうな面持ちで幼い姉は見た。桃色の唇がゆっくりと開く。
「シロウ。シロウの手はね、汚れてなんか、ないんだよ」
甘い声だった。場に似つかわしくないほど、それは甘い声だった。幼い姉。けれどそれは外見だけで、彼よりも実年齢と精神年齢はよほど彼女の方が高い。擬態だと。
ふざけたように彼の主である、あかいあくまと呼ばれる少女が言ったことがある。その時幼い姉はむくれた。ひどいわリン。わたし、擬態なんてしてない。誰も騙してたりなんかしてないんだから。だから、すぐに取り消して。
それは気に入らないことを言われてふてくされる子供のようで、案の定リンと呼ばれた少女はそのネタで幼い姉をからかった。その時に起こった喧嘩は、それはひどかったものだ。
けれど今の姉は明らかに見かけを越えて大人びていた。外見から推察出来る年の頃はまだ小学生並みだろうか?でも、それは違う。
彼女の本当の年齢は、それよりもずっとずっとずっと上だ。
「ね、シロウ」
シロウと彼女は彼を呼ぶ。かつての彼が持っていた名前を。そして言う。もういいんだよと。
他の誰が許さなくても、わたしが許してあげるからと。
「シロウの手はね、綺麗だよ。……ほら」
そう言うと幼い姉は彼に歩み寄っていくと、背伸びをして片手を出した。それから促す。
「片手を、出して」
不思議な引力。その言葉に彼は無意識に従っていた。水を流したまま、目前に差し出された幼い姉の白い手に、己の褐色の手を差し出す。
水に濡れに濡れた褐色の手。それはひどく冷えていて、ほのかに温かな白い手を彼のそれと同じように濡らした。
「ほら。触っても、汚れないでしょう? だからいいの。もう、そんなに執拗に手を洗ったりしなくてもいいのよ」
「……ねえさん」
「シロウの手はひとごろしの手なんかじゃ、ない」
だからね。
「もうね、血を洗い流そうとやっきになんてならなくてもいいの。怯えなくてもいいの。怖がらないで? どうしても怖いっていうのなら、わたしがこうしててあげるから」
彼の顔が引き攣る。びくり、と頑強な肩が跳ね上がった。それを悲しそうな、けれど慈しむような目で幼い姉は見た。もう片方の手も出して、彼女は濡れ震える褐色の手を包み込む。すっかり冷たくなった手を。おそらくは過去に水ではなく、それ以外のもので濡れそぼったであろう手を。
「わたしはね、シロウを信じてるから」
目を閉じて、幼い姉は言う。
「シロウはね、もう人を殺したりなんてしないよ。……わたしがさせない。シロウ、あなた自身がそうしたくても」
止めてみせる、と彼女は。
「ねえ、さん、」
だけど。
だけど、オレは、と、いつもと違う呼び方で、彼は自分のことを語った。白い小さな手に包まれた褐色の大きな手はかたかたと細かく震えている。
恐れている。彼は恐れている。過去の幻影に。自分でも知らずトラウマと化して。それは怖いことだったから心の奥底に閉じ込めて、知らぬふりをして目を背け人を殺し続けた。その手を、他人の血で濡らした。
それをどうして幼い姉が知っているのだろう。だが、そんなことはきっとどうでもいいことのはずだ。止めてくれると彼女は言った。なのだとしたら。
「ねえ、さん、オレは、」
声が詰まる。知らず、涙声になる。
蛇口は未だ水を吐き出し続ける。そんなものは放っておいて、たまらずその場にしゃがみ込んだ。足が萎えて立っていられなくて。
包み込まれた手に、顔を寄せる。白い手に祈るように額を重ねた。幼い姉が初めてふふ、と笑うのを彼は聞いた。
「シロウは甘えん坊だね」
いいよ。
甘えてもいいよ。
姉は言う。幼い――――けれど、本当はもっとずっと年上のはずの彼女は笑ってそう言ってくれる。世界中の全てを敵に回したとしても、自分だけは彼の味方でいてあげるからと。
「随分と安っぽい台詞だけどね」
ふふ。
笑ってそう言う幼い姉にぶんぶんと首を振る。下を向いて、懸命に涙がこぼれるのを耐えた。でも、それさえも幼い姉は見抜いてしまって。
「泣いてもいいよ」
そう、言ってくれた。
だから。
「う、う」
体が震える。
喉が震える。
心が震える。
だから、彼は泣いた。これまでにたくさんたくさんたくさん、殺してきた誰かの顔を思い出しながら涙をぼろぼろとこぼして泣いた。そんな彼を、幼い姉はただ黙ってじっと見ていてくれた。
口も何も出さずに、ただ、じっと。
彼は嗚咽した。そこが台所だなどと気にせず存分に泣いた。幼い姉がそれを許してくれたから。
「もう、手は、洗わなくていいんだよ」
再三繰り返したことを彼女は繰り返す。濡れた――――血ではなく水に濡れた手を包み込んで。温めるようにして。自分の体温を移すようにして。
大きな弟を、姉としてなだめ続けた。
「シロウの手は、汚れてなんかいないよ――――」
ざあざあと水の流れる音。それに混じって、嗚咽の声が台所に小さく響き渡る、そんな午後だった。



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