ランサーはいない。
日差しの中で上半身を起こし、滑っていくシーツの感触に軽く身悶えながらアーチャーは思う。いつもそうだ。
情事のあと、消耗したせいでアーチャーが眠りにつくとランサーはいなくなってしまう。体は清められているので放置されたまま置いていかれるのではないらしいけれど、それでもなんだかせつないものだ。
シーツを鼻先に持っていってみる。昨夜さんざんすがった男の匂いがした。爪の間を見てみる。
赤黒く、汚れていた。急に劣情が心の底から湧き起こる。アーチャーは、促されたようにその指を吸った。軽い魔力の名残りがあって、アーチャーは陶然とする。
人の身のときはただ不味いとしか思えなかったそれが、英霊の身となってから甘く、いとしくなった。
卑しいと思わないときもないではないが、それ以上に血は甘く、どの体液よりも身になじんだので捨てられない。精は、叩きつけられる感覚が強くて気が遠くなる。補給経路としては一番効率が良いのだが、身も世もなく泣き叫んだり意識を失ったりすることを考えると、あまり得策ではないように思える。
それでもアーチャーはあの感覚が嫌いではない。
そっ、と指先を下へと滑らせてみた。だがぬめるあの感触はもうなくて、とある点で生真面目な男と貪欲に吸収する己の体を恨む。
一度乞うたことがある。そのまま放っておいてくれと。
ランサーは怪訝な顔をして、それから、駄目だ、と言った。霊体化すれば元通りだとか、なんとか子供のように駄々をこねた気がする。だけれどランサーは聞き入れてはくれなくて、水に濡らしたタオルで、体を。
霊体化してリセットすることをランサーはあまり好いてはいないようだった。おかげでアーチャーの体にもランサーの体にも情事の跡が消えることなく残っている。首筋、手首、鎖骨、胸元、腹、太腿。異常なほどに散った赤い跡を見てしばしぼんやりとする。
こんなに、激しかったろうか、昨晩の情事は。
するりと腹に手を当ててみる。筋肉がついているがなだらかな腹だ。服をまとっていないのでするすると指はなんら邪魔されることなく下へとおりていき、跡に指先が触れる。と、じわりそこがあたたかくなったような気がしてアーチャーは眉を寄せた。眉間に、皺が寄るのがわかる。
どうしていなくなってしまうのだろう、と拗ねるように思った。
抱くときはあんなに熱いくせに、あんなにがっついたように首筋を噛んで喉仏を舐めて腰を進めて、アーチャーアーチャーと懸命に名を呼ぶくせに。
背筋が震える。昨晩の情事を鮮明に思いだしてきて、目前が眩んだ。暗い中でもサーヴァントとしての、それも弓兵としての視力はつぶさに相手の挙動ひとつひとつをとらえ、記憶する。日頃はそれを意識の奥底に沈めているアーチャーだったが、いまは枷が外れたようにそれを思いだしていた。
名を呼ぶどこかせっぱつまった声、身を食む犬歯、舐める舌、痛いほど強く意志を持って穿ってくる熱。びりびりとそれらを受け取って震える肌。上げた嬌声、名を呼ぶ声、すがる腕、引っ掻くというよりは食らいつく爪。
混沌がそこにはあった。
眩暈がする。ランサー、と名を呼ぶが男はやはりそこにはいない。
「ランサー」
声に出して呼んでみても男はそこにいない。あんなにめちゃくちゃにしてくれたくせに、どうして。傍にいてほしいと、ねだるわけではなかった。さびしくもなかった。
それでも、この場にいてほしかった。
どんな理由があるかは知らない。それでも。
半ば憎むように男を想った。アーチャーはシーツに顔を埋める。
ランサー。つぶやく。
ランサーはいない。


潮風が心地良い。ランサーはぼんやりと煙草のフィルタを噛みながら、紫煙を青空へと吐きだしていた。
海は寄せて返し、ただ、静かだ。昨晩の情事などまるでなかったように思わせて、思わず苦笑する。自分は逃げている。
ランサーは己と相手の嬌態を、狂態を思い返してまた紫煙を空へと吐きだした。汗やいろいろに濡れた体、ぶつかりあう肉、過ぎたほど触れあうところどころ。
夜はいい。まだ、我慢していられる。けれど明るいうちは駄目だ。夜にあれだけ跡をつけて、名を呼んで食らっている。とすると明るいうちはどうだ?食らいつくしてしまうのではないか?恐れるわけではないけれど、好ましくない。
食らいつくしてしまったらあれはなくなる。それは嫌だ。
いつのまにこんなに執着するようになったのだろうとランサーは思う。どれだけ熱くなっても一方冷めた面を持つのが自分だったはずだ。アーチャーにもそう接すればいい。そうしているつもりだった。
だけど自分はこうして朝になると逃げている。夜のうちに体を清めて、それだけは抱いた相手に対する礼儀だと言い聞かせてそれからは逃げるようにその場を後にして。
ゆっくりと、思い返す。暗闇の中で喘ぐ男の姿を。ランサー、と低く甘い声、そのうち極まっていく嬌声、果てたときの放心した顔。
涙に濡れた頬を舌で舐めればかすかに反応を返した。
ち、と軽く舌打ちをする。
ぐしゃりと片手で空になった煙草の箱を握りつぶした。
あれだけ跡を残してしまうというのは執着だ。それはよくない。ぞっとして奥歯を噛む。いまはまだ我慢していられる。が、我慢しきれなくなったらどうする?
食らい尽くしてしまえば、リセットも出来ない。
一度、アーチャーは言ったことがある。このまま放っておいてくれないかと。内腿をランサーの放ったもので濡らして、タオルを持ったランサーの腕を掴んで。ランサーはしばし沈黙して、首を振った。駄目だと。
じくじくと奥底から湧き上がってくるもの。それは衝動だ。抱きたい、食らいたい、喰らいたい。
ランサーは人食いではなかったが、それでもそう思うときがあった。意識のない体を清めてやって、それで逃げるように場をあとにするのはそういうときだ。アーチャーは愛想のない男だと思っているだろうか。酷い男だと。
それでもいい、とランサーは思う。
食らいつくしてしまうよりはずっといい。
アーチャーにおまえを失うのがおそろしいと告げることはおそらくないだろう。だから逃げるのだと告げることも。
プライドが邪魔をするだなんて大層なことではない。決して。
ただ、あの鉄面皮がそれでどうなるかわからないから。
うれしそうにゆるんでも、汚らわしいものを見たというように歪んでも。きっと、自分は耐えられないとランサーは思った。
「アーチャー」
声に出して呼んでみる。ここにいない相手を。自ら置いてきた相手を。
けれどそうしなければ。
失う。
アーチャー。ささやく。
潮風がべとつく。己の執着のように、まとわりつく。



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