つまりは早く裏切ってもらえれば楽になれるのに、彼はどうしてそうしてくれないのだろう?


「ランサー。君はいつ、私を裏切ってくれる?」
そう切り出した私を、彼はじっと見た挙げ句に「は?」と眉を上げて返してきた。
「なに言ってんだおまえ。いつ、どうやって、どんな理由でオレがおまえを裏切るっていうんだ」
「理由などいらないよ。事実があればいい。君が私を裏切る。それだけで、私には」
「ふざけんなよ」
だん、と壁に打ち付けられた両手。
てのひらは熱を持っているのが見え見えで、私は静かに、冷静にそれを見やった。まるで堅牢な檻のように私を捕らえて逃がさない掌。柔軟に伸びた腕。目線をわずかに上げてみれば、赤い瞳がぎらぎらと燃えてこちらを見据えていた。
「ふざけてなどいないさ」
「どこがだよ」
「全部が、さ」
ああ、もううるさい。
そんな彼の心の声が聞こえたような気がした。
事実、彼は次の瞬間かぶりつくように私にくちづけてきて舌を絡め取り、唾液を啜り喉を鳴らす。私は反抗も抵抗も出来たがしなかった。あえてではない。
ただ、されるがままに任せていたのだ。
息継ぎの間にぷはっと声を発して、彼は再度私を見据える。睨み付ける。
「ここまでされて、まだ逃げられるとでも思ってんのか」
「逃げるんじゃない。“君が”“私を”裏切るんだ。ランサー」
「――――だから!」
みしり。
途端、壁に入る亀裂。これは凛が見れば怒るだろうな。
なんて呑気に考えながら私は思う。どうして彼は、私を裏切ってくれないのだろう。見捨てて、打ち捨てて、どこぞへか行ってくれないものか。きっとその時、私の心は張り裂けんばかりに痛むだろうけれど、それだけだ。
刻まれた傷は癒えることはないだろうけれど、それ以上広がることもない。じくじくと膿み続けるだけで。
それならば耐えられる。私は、そういうものだから。
「言っただろう。オレはおまえを守るって。おまえが座に、世界に連れ戻されても追いかけていって、どこまでも追いかけていってその手を掴んでやるって。なのになんで、おまえはそんな」
「耐えられないんだ」
私は、言った。
笑みを浮かべて、ひっそりと。
「そんな幸せが私にも用意されているだなんて夢想することが、どうしても耐えられないんだ」
「――――」
ショックを。
限りない落胆を受けた表情を彼はして、刹那その赤い瞳が輝きを失った。ほら、そうだろう?君も私と同じはずさ。
だからその手を引いてくれ。私の手を引いていた手を離して、そのままどこか君に相応しい場所へと行ってくれ。私は何も言わない。
だから。
掌が引かれる。そろそろと。私は頑強な檻から出ようとして――――。
ぱん。
「……え?」
自分の頬を打った、あまりにも脆弱な攻撃に棒立ちになった。
「なんで」
その声は、震えていた。
怒りにか、悲しみにか。それともその両方にか。
「なんで、おまえはオレを信じようとしない」
「ランサー」
「オレは、“おまえを離さないオレ”を信じてるのに、だっていうのに、なんでおまえが信じようとしない。そんなんじゃ、オレは」
信じられないことに。
彼の、ランサーの赤い瞳の淵には涙の粒が滲んでいた。
「そんなんじゃ、オレは――――」
突然抱きしめられて恐慌状態になる。ランサー。その名を呼ぶが効果などない。精神的なそれが力になる。だから私は彼に勝てない。
私を愛しているなどとほざく、彼にはどうしても。
「ランサー、いやだ」
それでも私は抵抗する。声音だけで、震える声音だけでもって。けれど当然抱きしめてくる腕は力を増すばかり。
「嫌な奴は、そんな声出さねえよ」
彼の声も未だ震えている。おそらくは激情に。
どうして?


どうして、君は私を楽にさせてくれない?


「ランサー。頼む。離してくれ」
「死んでも離すか、馬鹿野郎」
「ああ、馬鹿だ、君は――――」
私の目にも涙が溢れてくる。じんわりと。そして、それは流れとなって。
「そして、私も……」
頬が熱い。
目の奥も。
体全体が。
熱くて、熱くて、熱かった。


この男が私を簡単に楽にしてくれるはずがないのだ。それはそう、“衛宮士郎”――――だった頃も、そうだったではないか。
突然に心の臓を突き刺して、生き返ったところをまた追い詰めて、執念深く殺そうとしてきたではないか。
簡単に楽になどしてくれない。追い詰めて、追い詰めて、引導を渡そうとしてくる。
そうして私はそれを受けた。
この胸に彼の魔槍は突き刺さり、私はとっくに逃げられないことを知ったのだった。



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