ホテルの浴室は広かった。意図していなかったのでそれがすこしうれしかった。
男の膝に腕をかけてくったりとクリーム色のタイルの上に崩れ落ちた弓兵は、ぼうっと黄色い太陽の光をながめた。目が覚めたら当然のように朝で、体が汚れていたので風呂にでも入ろうかという話になった。断るのは面倒だったし断る気もなかった。
とりあえずベッドからシーツをはいで裸体に巻きつけ、立ち上がろうとしたら床にへたりこんでしまい、動けなくなった。
立てない。掠れた声でそう言うと、男はああ?と自分の分のシーツを巻きつけるのを中止して首をかしげた。
腰が抜けて立てない。そう言うと、男は仕方なさそうに笑った。それから、抱き上げられて、まるで子供のように、浴室まで連れてこられたことまでを、覚えている。
さてどうやってこんな体勢になったのか。とにかく力が入らないからだと結論づけて弓兵は嘆息した。長い長いそれはあたたかい湯気で曇った浴室内にじわりと広がっていく。男は不自然な体勢から器用にカランまで手を伸ばすと、それをひねった。ざあとあたたかい雨が降る。弓兵は片目を閉じた。降り注ぐあたたかい雨。―――――熱い精。
内部はなんとか魔力として吸収したらしく、こぼれ落ちるものは少ない。だが、顔に出されたものまではすべて舐め取れなかった。
シーツで拭って、男の舌でも拭われて、スプーン一杯分ほど飲んで、糧とした。
男は顔に出すのが好きだ。おまえの肌の色とのコントラストを楽しむのが好きだなどと言う。にやにやと意地悪く。正直、呆れる。
悪趣味だと思うし、なにが楽しいのだろうとも思う。磨耗してよく思いだせないけれど生前も守護者となってからも、陵辱するといった風な体験には縁がなかったから男の考えることはわからなかった。かといって愛がある体験にも縁があったわけでも、ない。
寂れた生涯だった。
くつくつ笑う頭にぬるぬるした液がかけられ、目を閉じろと言われる。素直に閉じればあたたかい雨ですっかり下りた髪に男のふしくれだった指が伸び、丁寧に洗われはじめた。髪だけではなく地肌も。弓兵はうっとりとした。男の指は巧みで心地良かった。
大雑把だと思われがちな男だったが、実は何事にも器用でいて繊細でもあった。
たとえば新都でのウェイター業。紅茶を淹れるのは厨房の仕事だが、注文を取る男のしぐさは優雅ですらあり、見事だった。うっかりと見惚れてしまうほど。その指先。
息を吐いた。その指先、頭を洗う指先、その指先。簡単に脳内では一致して、悦になる。メニューを持つ手、紅茶を運んでくる手、白いカップを差し出してくる指先。体を辿る指先、体内に入りこむ指先、探る指先、抉る指先、穿つ指先、果てさせる指先。
舌を出して唇を舐めると泡が口の中に入ってきた。甘い匂いとうらはらの味に眉間に皺を寄せる。だがそれも男の精と似ていると思えて喉を鳴らして飲みこむ。舌を動かせて唾液と絡めて、喉を鳴らして飲みこんだ。
男の腕にもところどころ泡がついている。シャンプーは熱帯の花のような甘い甘い匂いがした。それをあまさず舐め取ってしまいたいと思い、考えるだけにする。なにしろ、体が動かない。
髪を洗われているだけでも悦を感じているというのに、男はまだそれを続ける。シャワーを手にして一度全部泡を流してしまうと今度はリンスを手に取って丁寧に弓兵の髪になじませた。耳の裏側までもなぞるように指先で執拗に梳いて、うなじまでを辿る。
そしてまた丁寧に流された。
呼ばれて、霞んだ瞳で首を捻ってそちらを見ると男が顔を覗きこんできた。赤い瞳は鮮烈だ。だいじょうぶか。聞かれたことが一瞬わからなくて黙りこむと大丈夫か、ともう一度聞かれた。
声が心配そうな響きを帯びていたので、つい笑ってしまうと男はむっとした顔をする。大丈夫に見えるかね。嫌味のように言ってやればますます男はむっとした顔になった。
責任を。
取ってくれたまえ。
ほとんどタイルの上に横たわって男に手を伸ばすと、指先から水滴がぴとんと落ちた。発条仕掛けの人形のように首を捻る。きりきりと音がしそうなほどにぎこちなく体を動かせて男に腕を伸ばした。男はじっと弓兵を見ている。
窓の外から陽光が差しこむ。青い、空が見える。
男は笑った。
抱きしめられて、くちづけられて、なんだこの味、と苦い顔をされた。きみのせいだよと二重の意味で言うと怪訝そうにはあ?と言われ思わず力なく笑う。
腕を引かれて浴槽の中に入る。猫足のバスタブはさすがに男二人では狭くて、体をかなり密着させて入ることになった。男の開いた足のあいだに入って、膝を立てて荷物のように詰まる。そのまま何も言わず二人、ずっと雨の音がする中でのんびりとくちづけを交わしたり体に触れあったりしていた。
体液の温度に似た、あたたかい雨の中でずっと。



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