目の前に星が散った。
そんな古典的な話あるだろうか。アーチャーは呆然として走り去っていく後姿を見つめていた。夫婦剣を投影することもなく、怒鳴ってあとを追うでもなく。
ただ立ちすくんで、遠くなっていく昔の自分の後姿を見つめ、どこまで遠くなっても見える真っ赤になった耳を見つめていた。
廊下を曲がってしまって見えなくなって、不意に唇が痛んで指を当ててみると、ぴりりとしてぬるりとする。褐色の指先を離して、見てみれば先程の衛宮士郎のように真っ赤な血が滲んでいた。
ぶつかったときに切れたのだろう。
つまりはそういうことだ。


きっかけはいつもの口喧嘩だったのだろうと思う。だろう、というのはそんなには鮮明に覚えていないから。だから、やはり、そういうことだ。
衛宮士郎との喧嘩などアーチャーには日常茶飯事である。息を吸って、吐いて。そんな自然な行動。
息を吸うのに意識して吸う必要が?吐くのにも?―――――ない。
とにかく先に限界を突破したのは衛宮士郎だった。これもいつも通り。こと口喧嘩においてアーチャーが衛宮士郎に負けたことなどない。いつも彼を言い負かしてはにやりと、嫌味な笑顔で吐き捨てるのだ。
“はっ、修行が足りないな。小僧?”
そうすると衛宮士郎は幼い顔を怒りに染めて、わあわあと叫び散らかす。アーチャーはそれに相手することもあるし放置することもある。相手するというときは……暇、なのだろう。そのはずだ。
仕事はすべて終わっていてすることがなかったりだとか。それで。
怠惰な猫がとりあえず目の前で振らされたおもちゃにじゃれるように、衛宮士郎にかまってみせる。
途中で投げだしてしまってもいいはずだけど、何故だか最後まで付き合ってしまう。
アーチャー、あんた意外と大人げないのね。
初めて二人の喧嘩を見た遠坂凛は、困ったように、それでいて楽しそうに、顔を手で覆ってつぶやいた。凛、口元が笑っているぞ。そうかしら?気のせいよ。そうだろうか?そうよ。そうか。そうよ。
それで終了。
マスターとはこんなにあっけなく会話が終了してしまうのに、彼女と同い年の衛宮士郎とはまともに会話が出来たことがない。
コミュニケーションの決定的な不足、問題はおそらくそこにある。
けれどアーチャーにはそれを改善する気もなければ必要もなかった。
だって、相手は衛宮士郎だ。


「馬鹿にするなよ、俺だって、俺だってな……!」
「ほう、なんだ? 言ってみろ、小僧」
「お、俺だって…………」
「だから言ってみろと言っている。俺だって、どうした。ん? 言えるんだろう。それとも、言えんのに胸を張ったのか?」
やれやれ、と普段以上に嫌味に笑って肩をすくめると、目の前の小さな体から怒気が膨れ上がるのがわかった。
これでようやく一般の背丈になったか、と内心でまた嫌味に笑うと、おまえ、またなにか言っただろ!と怒鳴る声が辺りに響いた。
まったくやかましいことである。
「あまり騒ぐな。セイバーや凛たちが心配して出てくるぞ」
「セイバーたちのことを引き合いに出してごまかすな! ……これはっ、俺たちの問題だろ!」
「俺たち?」
「そうだよ、俺たちだ」
「なにを―――――、」
馬鹿な、と言いかけて飲みこんだ。衛宮士郎が、いつになく真面目な表情をしてアーチャーを見据えていたからだ。
なんだ?
衛宮士郎は、自分は、こんな顔を、自分に向かって、しただろうか。
俺たちの問題だなどと。愚かなことを。
言ったのだろうか。
……思い出せない。
わからない。知らない。
こんな衛宮士郎は、知らない。
こんな、男のような顔をした、そのくせ泣きそうな衛宮士郎は…………


そこで、星が散った。


唇と唇が重なるなんてロマンチックなものではなく、歯が勢い任せにぶつかってきて衝撃を受けた。がちんと粘膜に硬質な感触。
思わず片目をすがめて見ると、真剣そのものといった衛宮士郎と視線が合った。
彼はなにか言いたげだった。
本当に、たくさんのことを。
だけれど何も言わずに踵を返して、廊下を走っていった。顔を聖骸布のように真っ赤にして。耳まで真っ赤にして。
まるでアーチャーの唇から流れる血のように。
「…………乾いていたのだな」
未だ血が流れるそこに、指で触れながら嘆息するように言う。
わざと、関係のないことを言った。
関係のあることを言ってしまったら、自分も取り返しがつかなくなるような気がしたのだ。
指先は鮮やかに赤い。
ため息がでるほどに。



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